13 外務大臣は遊びたい
夕暮れ時。
哲学ヨハンナとヴィルテは、セーヌ川のほとりでジェラートを舐めていた。
ヌイイ・シュル・セーヌを散策したあと、二人は再びパリエリアへ戻ってきたのだった。
川面には夕日が映り、緑色の水が橙色に染まっている。バトー・ムーシュがゆっくりと通り過ぎ、その向こうには、ノートルダム大聖堂の尖塔が見えた。
「行くかい?」
「今日だけで一年分歩いた感じです」
「ふっふっふ」
哲学ヨハンナは、ジェラートの最後の一口を食べた。
「じゃあ、ちょっと座ろうかねぇ」
「賛成です」
二人は川沿いの道を離れ、建物の間へ入っていった。
大通りから一本入ると、街の雰囲気が変わった。
狭い石畳の路地に、古びた建物が並んでいる。壁には蔦が這い、窓辺には小さな植木鉢が置かれていた。
その一角に、カフェがあった。
小さな丸テーブルがいくつか並び、客たちはコーヒーを飲んだり、新聞を読んだりしている。
哲学ヨハンナは、空いているテーブルを見つけると、椅子に腰を下ろした。
ヴィルテも向かいに座る。
ほどなくして、黒いベストを着た年配のギャルソンがやってきた。
「アン・クレーム・エ・アン・クロワッサン・シルブプレ」
「ウィ」
「ドゥ」
「ウィ」
「エ……」
「ジュ・ネ・ク・ドゥ・マン、マドモワゼル。メルド」
「ホンホンホン」
ギャルソンは、すたすたと店内へ戻っていった。
ヴィルテは、哲学ヨハンナに身を寄せた。
「すごいですね。なんて言ったんですか」
「カフェ・オ・レとクロワッサンを二つ欲しいねぇ」
「なるほど」
ヴィルテは、テーブルに置かれていた水を飲んだ。
「あちらは」
「ん?」
「なんて言ってたんですか」
「私には手が二つしかないんですよ、マドモワゼル」
「なるほど、どういう意味ですか」
「まあ、忙しいから一旦後にしてくれって感じかな」
「メルドは?」
「くそ」
「……怒ってるんじゃないですか」
「ふっふっふ、これこそパリさ」
「ホンホンホンっていうのは?」
「ふっふっふ、のフランス語だね」
「……」
嫌な客と店員だ。
ヴィルテは水を飲んだ。
路地の向こうでは、買い物袋を提げた女性が歩いている。近くのテーブルでは、新聞を広げた老人がコーヒーを啜っていた。
しばらくすると、先ほどのギャルソンが戻ってきた。
両手には、カップと皿を載せたトレー。
ギャルソンはテーブルの横に立つと、流れるような動作でカップを置き、クロワッサンの皿を並べた。
無駄のない動きだった。
カップの取っ手はきちんと客の方へ向けられ、皿は音も立てずに置かれる。
すかした顔をしているだけあって、その手際は老練で美しかった。
「メルシ」
「メルシ」
「エクスキュゼ・モワ、ムッシュー」
「メルド」
ギャルソンは、そのまますたすたと立ち去っていった。
「……」
ヴィルテは、ギャルソンの背中を見送った。
哲学ヨハンナは、楽しそうに笑っている。
「ふっふっふ、今日はどうだったかな?」
「楽しかったです、ありがとうございました」
「ふっふっふ、良いさ。わたしも若者の楽しんでる姿を見れて三歳若返った気分だよ」
「良かったです。あんま若返ってないですね」
「数字にするとね」
哲学ヨハンナは、クロワッサンの先をカフェ・オ・レにつけた。
少し浸してから、口に運ぶ。
ヴィルテも真似をした。
温かいミルクとコーヒーが、クロワッサンの表面に染み込んでいる。
バターの香りが広がった。
その時だった。
「おい、こんなの頼んでないぞ」
「メルド」
ヴィルテは振り返った。
先ほどのギャルソンが、店内へ引っ込んでいくところだった。
残された北欧系の男性は、テーブルの上に置かれたカップを見つめていた。
金魚鉢のように巨大なカップだった。
なみなみと注がれたカフェ・オ・レから、湯気が立っている。
「寝れなくなるじゃねーか……」
男性は途方に暮れていた。
「しかも七ユーロ! かっ。なんて街だ」
「ふっふっふ、見てごらん」
「なんなんですか」
「彼はアン・カフェ・オ・レを頼んだのさ。だからああいう目に遭う」
「どういうことですか」
「パリは観光客に厳しい街だからねぇ。観光客だと思われないためには、現地の人と同じ言葉を使う必要があるのさ」
「でも、彼もフランス語を使ってましたけど」
「ふっふっふ、つまり、パリの言葉はパリの言葉、合言葉のようなものさ」
「へぇ」
ヴィルテは、もう一度男性を見た。
男性は巨大なカップを両手で持ち上げ、どうしたものかと中を覗き込んでいた。
「パリは世界有数の観光地だからねぇ、現地の人は観光客にうんざりしてるのさ」
「なるほど」
「それで、えーっと、なんだっけ」
哲学ヨハンナは、しばらく考えた。
「そうそう、シェーブルチーズのサラダを頼みたかったんだけどねぇ、まあいいや。そうじゃなくて、きみに話があったんだ」
「なんでしょう」
ヴィルテは、少しだけ姿勢を正した。
「今日のきみを見て、思ったんだけどねぇ、モニターにならないかい?」
「というと?」
「カラディシアはまだ発展途上の国さ。だからねぇ、新鮮な目を持った人に、この国の魅力を再発見してほしいんだよねぇ」
「なるほど。でも学校がありますし」
「午後は暇だろう?」
「はい。でも、Oic Placeでくつろぎたいし」
「そこでどうくつろげるかをレビューしてほしいのさ」
「なるほど」
ヴィルテは、カフェ・オ・レを啜った。
面倒くさそうだ。
ただくつろぐのと、そこでどうくつろげるのかを考えながら過ごすのとでは、まったく違う。
Oic Placeは好きだった。
暖炉のそばで寝たり、本を読んだり、ゲームをしたり。
そういう時間まで仕事にしてしまうのは、なんだか気が進まない。
「せっかくですが」
「待ちなよ」
「はい」
「ちょっとそこ座りなよ」
「座ってます」
「座りなよ」
「座ってますって」
「あぁ、ごめんね。今、カウンセリングヨハンナが診療中でねぇ、患者がちょっと動揺してたのさ」
「はぁ」
哲学ヨハンナは、カフェ・オ・レを一口飲んだ。
「それで、そうそう、ヴィルテちゃん」
「はい」
「ちょっとそこ座りなよ」
「座ってます」
「ふっふっふ、そうだったねぇ」
「なんです」
「給料出すよ」
「引き受けるに決まってるじゃないですか」




