12 外務大臣はパリがお好き
「わたしとしたことが、案内してしまっていたねぇ。うっかりしてたよ。今日はヴィルテちゃんについていこうと思ったのに」
哲学ヨハンナは、鴨川を眺めながら言った。
「いえいえ、楽しかったですよ。次はどうします?」
「学園のある地域で、行きたいところはあるかい?」
「パリとか」
「こっちだよ」
「あるんですね」
「ふっふっふ」
二人は立ち上がり、川沿いの道を歩き始めた。
京都の町並みを抜けると、再びヨーロッパ風の建物が現れた。石畳の道が続き、建物の様式が少しずつ変わっていく。
哲学ヨハンナは、時折コーヒーを飲みながら歩いていた。
ヴィルテは、通りに並ぶ店の看板を眺めたり、道端の彫刻を見たりしながら、その後をついていった。
数キロ歩いた先に、大きな川があった。
セーヌ川だった。
緑色の水面を、白い遊覧船がゆっくりと進んでいる。
バトー・ムーシュというらしい。
川の向こうには、古い石造りの建物が並んでいた。橋の上には観光客が集まり、川岸では何人かが写真を撮っている。
少し離れたところに、ノートルダム大聖堂が見えた。
「わー、ずっと来たかったんですよ」
「どうだい?」
「良いですね。わー、ほんとに緑色だー」
ヴィルテは川岸の柵に近づき、水面を覗き込んだ。
緑色の水が、ゆっくりと流れている。
遊覧船が通り過ぎると、波が岸辺に寄せてきた。
「泳ぐのは勧めないよ」
「そうですね、ちょっと汚そう」
ヴィルテは水面から目を離し、足元を見た。
「わー、あっちには煙草の吸い殻。ほんとに落ちてる」
石畳の隙間に、煙草の吸い殻が落ちていた。
少し先にも、もう一本。
「ふっふっふ、リアリティが大事だからねぇ。ここで泳いだらまず病気になるよ」
「そのようですね」
ヴィルテは、もう一度川を眺めた。
見た目は綺麗だった。
ただ、泳ぎたいとは思わなかった。
その時だった。
少し離れたところに、清掃員の姿が見えた。
明るい色の制服に、きちんと整えられた帽子。腰には清掃道具が収められ、手には長い柄の箒を持っている。
清掃員は、道端に落ちていた小さな紙くずを見つけると、手際よく箒で集めた。
そのまま屈んで拾い上げ、腰の容器に収める。
動作に無駄がなかった。
通りかかった観光客が道を尋ねると、清掃員はにこやかに応じ、少し先の橋を指さした。
観光客が礼を言って立ち去ると、清掃員も軽く会釈した。
なかなか感じの良い人だった。
ただし、顔はヨハンナだった。
「……」
ヴィルテは、その様子を眺めた。
清掃員ヨハンナは、周囲を見回した。
右を見る。
左を見る。
後ろを見る。
誰もこちらを見ていないことを確認すると、腰のポケットから小さな携帯灰皿を取り出した。
蓋を開ける。
中から煙草の吸い殻を一本取り出す。
そして、石畳の隙間にそっと置いた。
「……」
ヴィルテは目を細めた。
清掃員ヨハンナは、少し離れて吸い殻の位置を確かめた。
首を傾げる。
もう一度近づき、箒の先で吸い殻の向きをわずかに変えた。
それから二歩下がった。
満足したらしい。
携帯灰皿をポケットに戻し、何事もなかったように箒を持ち直した。
そして、立ち去ろうとした。
その時、ヴィルテと目が合った。
「……」
「……」
清掃員ヨハンナは、急いで目を逸らした。
しかし、手遅れだった。
ヴィルテは、じっと見ていた。
清掃員ヨハンナも、じっとこちらを見た。
しばらくして、清掃員ヨハンナは人差し指を口の前に立てた。
しー。
ヴィルテは頷いた。
清掃員ヨハンナも頷いた。
そして、何事もなかったように背筋を伸ばし、箒を片手に歩き出した。
すれ違った観光客には、にこやかに会釈していた。
「……哲学ヨハンナさん」
「なんだい」
「この吸い殻って」
「ふっふっふ、テーマパークには装飾が大事だからねぇ。世界観を崩してはいけないよ」
「いや、もっと花とか飾ればいいのに」
「花が見たいならヌイイに行こう」
「ヌイイ」
「ヌイイ・シュル・セーヌさ。こことは違って清潔なエリアだよ」
「行きましょ行きましょ」
ヴィルテは川岸を離れた。
哲学ヨハンナも、のんびりとその後に続いた。
少し歩いてから、ヴィルテは振り返った。
先ほどの清掃員ヨハンナが、今度は観光客の落とした紙くずを拾っていた。
拾い上げた紙くずを容器に収め、観光客に笑顔で会釈する。
観光客も、嬉しそうに礼を言った。
清掃員ヨハンナは、また周囲を見回していた。
ヴィルテは、見なかったことにした。
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