8 外務大臣はベンチで寝たい
「さ、行こうか」
「ええ」
ヴィルテは飲み終えたコーヒーのカップをトレーに置き、立ち上がった。
窓の向こうでは、相変わらず人々が行き交っている。先ほどの巡回ヨハンナは、もうどこにも見当たらなかった。
哲学ヨハンナも席を立つ。
その時だった。
「大臣」
どこからともなく、スーツ姿の男が現れた。
黒いスーツに、きちんと結ばれたネクタイ。三十代くらいだろうか。背筋を伸ばした男性が、哲学ヨハンナに声をかけていた。
「おや、どうしたんだい」
「ご報告が」
「ったるいねぇ。今日は休むと言ったじゃないか」
「急を要します」
「なんだい」
「執務室に例のものが届きました」
哲学ヨハンナは、しばらく男の顔を見た。
「……ベンチかい」
「はい」
「日本の空港と」
「まったく同じです」
「ふっふっふ、なるほどねぇ」
「いかがいたしましょう」
「状態は?」
「新品です」
「そこではないねぇ」
「未開封です」
「開封しなよ」
「はっ」
「組み立てなよ」
「はい」
「今あるソファと取り替えなよ」
「承知しました。ソファは?」
「持って帰りなよ」
「よろしいので?」
「前から狙ってただろう」
「ご存知で」
「暇さえあればそこで寝てるじゃないか」
「……はい」
「臨時ボーナスだよ。いつも頑張ってるからねぇ」
「ありがとうございます」
男性は、深々と頭を下げた。
ヴィルテは二人の顔を交互に見た。
どうやら、執務室に新しいベンチが届いたらしい。
それはわかった。
ただ、なぜそれが急を要する報告なのかは、よくわからなかった。
「ベンチはわたしのものだからねぇ、寝てはいけないよ」
「保証はできません」
「ふっふっふ、そこがきみを雇った理由だよ」
「失礼します」
「頼んだよ」
男性は一礼すると、来た時と同じように足早に立ち去っていった。
ヴィルテは、その背中を見送った。
「……」
哲学ヨハンナは、何事もなかったようにコートを羽織っている。
ヴィルテは少し考えた。
外務大臣の執務室。
新しいベンチ。
古いソファを欲しがる部下。
臨時ボーナス。
そして、ベンチで寝ることを保証できない男性。
「……あの」
「なんだい?」
「今の、お仕事ですか?」
「ふっふっふ、そうだねぇ」
「そうですか」
ヴィルテもコートを羽織った。
どうやら外務大臣の仕事には、ベンチの交換も含まれるらしい。
哲学ヨハンナはドアを開け、冷たい夜の通りへ出ていった。
ヴィルテも、その後に続いた。
Oic Marketの家具売り場は、食品売り場からずいぶん離れた建物の奥にあった。
天井が高い。
白い梁から吊るされた照明が、広い床を昼間のように照らしている。床には灰色のカーペットが敷かれ、その上にベッドが規則正しく並んでいた。
S、M、L、LL、XL。
食品容器と同じような調子で札が立っている。
最も安いものは、金属製の脚に板を載せ、その上に薄いマットレスを置いただけだった。飾りらしい飾りはない。隣には少し厚いマットレス。その隣には木製のフレーム。さらに進めば、引き出し付き、照明付き、棚付きと、値段に応じて少しずつ何かが生えてくる。
壁際にはマットレスが立てて並べられていた。
『硬い』
『やや硬い』
『普通』
『やや柔らかい』
『柔らかい』
ずいぶん率直だった。
枕も山積みになっている。
羽毛。綿。低反発。蕎麦殻。
蕎麦殻だけ妙に種類が多い。
売り場のところどころには、小さな札が立っていた。
『どうぞ横になってお試しください』
実際、横になっている人がいた。
若い女が仰向けになってRowenaを眺めている。老夫婦が二人並んで寝返りを打っている。少し離れたところでは、子どもがベッドからベッドへ飛び移ろうとして母親に捕獲されていた。
さらに奥には、高級寝具の一角がある。
照明が暖色に変わった。
カーペットが厚くなった。
ベッドとベッドの間隔も広くなった。
値札の桁も増えた。
その境界を越えたところで、なぜか棺桶が一つ置かれていた。
『Oic PB 木製棺 L』
寝具ではない。
その隣には普通のベッドがあった。
さらに隣にはソファ。
そのまた隣にはベンチがあった。
ヨハンナは立ち止まった。
「……へぇ」
どういうわけか、ベッドより先にベンチを見た。
「こちらにベッドがありますが」
「良いねぇ。ところで、これのXLサイズはあるかい?」ヨハンナは棺桶を指差した。
「……こちらに」
「待ちなよ」
「はい」
「あれ、ベンチかい」
「はい」
「売ってるんだねぇ」
「ベンチを好むお客様もいらっしゃいますので」
「試しても?」
「どうぞ」
ヨハンナはベンチに腰掛けた。
両手を座面につき、何度か体重を預ける。
「なるほどねぇ」
横になった。
「…………」
「…………」
仰向けになる。
寝返りを打つ。
横向きになる。
腕を枕にした。
「…………」
「いかがでしょうか」
「良いねぇ」
「ありがとうございます」
「硬い」
「ベンチですので」
「そこがいい」
「左様ですか」
ヨハンナは目を閉じた。
「…………」
「お客様」
「試してるよ」
「はい」
*
二十分後。
「お客様」
「ん」
「ご購入なさいますか」
「もう少し試すよ」
「左様ですか」
*
一時間後。
店員は売り場主任を連れてきた。
「こちらのお客様です」
「どうされました?」
「ベンチを試されています」
「一時間ほど」
「なるほど」
三人でヨハンナを見る。
寝ていた。
「…………」
「…………」
「……寝具売り場に移動していただいては?」
「先ほどベッドをご案内しました」
「断られた?」
「ベンチのほうが良いそうです」
「なるほど……」
主任は商品札を見る。
『Oic PB 屋内外兼用ベンチ 4,800レフ』
「まあ、耐久試験にはなるか」
「主任」
「起きたら感想聞いといて」
「はい」
*
三時間後。
「よく眠れたよ」
「ありがとうございます」
「これを一つ」
「お買い上げですか?」
「うん」
店員の顔が、ほんの少し明るくなった。
「配送先はいかがいたしましょう」
「外務省」
「…………」
「執務室に置こうと思ってねぇ」
「用途は?」
「昼寝」
「ベッドでは?」
「それじゃ仕事中に寝てるみたいだろう?」
「ベンチでも寝ておりますが」
「ふっふっふ」
店員は黙って配送票を出した。




