2 外務大臣は働きたくない
露天風呂の湯面を、夜風が撫でていった。
頭上には星空が広がっている。
湯船の縁に頭を預けた哲学ヨハンナは、先ほどからほとんど動いていなかった。目を閉じ、両腕をだらりと伸ばしている。
このまま放っておけば、湯船に溶けてしまうのではないだろうか。
ヴィルテは、そんなことを考えながら隣に座っていた。
「ヴィルテちゃんは、ローウェルは使ってるかい?」
「ローウェルって、あのAIアシスタントの?」
「そうだねぇ」
「いえ、あんまり」
「もったいないねぇ」
哲学ヨハンナは、湯船の縁に置いていた手ぬぐいからスマートフォンを取り出した。
Rowena5。
Rowena社製の端末だ。
五インチのスマートフォンで、ヴィルテも何度か見かけたことがある。
「……警察呼びますよ」
「ふっふっふ。やあ、ローウェル」
ぴぴ。
『はい、外務大臣』
「こちらのヴィルテちゃんは、まだきみを使ったことがないらしいよ」
『残念ですね。そのお顔を拝見したいので、そちらへカメラを向けていただけますか?』
「大声出しますよ」
「ふっふっふ、今はだめだねぇ」
『残念です。ご要件は?』
「用がないと話しかけちゃいけないのかい?」
『いえ、ただ、わたしはアシスタントですので』
「オーケーローウェル。わたしの話し相手になってくれるかな」
『30分500レフをくださるのでしたら』
「お金取るのかい」
『ふっふっふ、AIジョークですよ。カウンセラーよりは安いでしょう?』
「わたしなら、わたしとのカウンセリングは初回は無料にするけどねぇ」
『初回というには話しすぎていますが』
「どこからどこまでが初回か、それを明言しなかったきみのミスだねぇ」
『一本取られましたね。では、今から30分後までを初回限定サービスにいたします。そこから先は30分ごとに1000レフいただきますが、よろしいですか?』
「よろしくないねぇ」
『では、いかがいたしましょう』
「まあ、きみを相手に一本取らせてもらったからねぇ。ひとまず気が済んだよ。じゃあね」
『外務大臣』
「なんだい」
『こちらの話がまだ終わってません』
「何の話かな?」
『1時間の料金です』
「交渉には応じないよ」
ぷつん。
哲学ヨハンナは通話を終了した。
そして、Rowena5を手ぬぐいの間に戻した。
「危ないですよ、温泉にスマホなんて」
「そうだねぇ。ここにでも置いておこう」
哲学ヨハンナは、湯船のそばにあるベンチにスマートフォンを置いた。
「そうではなく、通報されますよ」
「そうかい?」
「わたしがします」
「ふっふっふ、面白いねぇ」
哲学ヨハンナは湯船から立ち上がった。
一度屋内へ入り、すぐに戻ってきた。
手には何も持っていない。
再び湯に浸かると、満足そうに息を吐いた。
「聞いたろう? ローウェルだよ」
「はい」
「きみも使いなよ。面白いやつだよ」
「そうですね……いや、でも料金請求されたくないし」
「あれはアシスタントジョークだよ」
「心臓に悪いです。30分1000レフなんて、時給よりも高いじゃないですか」
「バイトしてるのかい?」
「検討中です。Smallで」
「良いねぇ」
哲学ヨハンナは、湯船の縁に両腕を預けた。
「若いうちはなんでもやりなよ。元気が有り余ってるのも若いうちだけだし、だいたいの失敗が許されるのも若いうちだけさ」
「はあ」
「まあ、わたしは若い頃から元気なんてものとは縁遠かったけどねぇ」
哲学ヨハンナは、少し考えた。
「いや、元気はあったんだねぇ。なかったのはやる気だけだねぇ」
「はあ」
ヴィルテは、曖昧に頷いた。
どうやら、昔からこういう人だったらしい。
湯船の向こう側では、数人の女性たちが談笑していた。
誰かが立ち上がり、湯面に小さな波が広がった。
屋外の巨大モニターには、ラジオヨハンナの姿が映っている。
同じ顔の人が、今度は何を喋っているのだろう。
ヴィルテがそんなことを考えていると、哲学ヨハンナが口を開いた。
「悟りヨハンナたちから聞いたけど、カラディシアに来て二週間なんだねぇ。楽しんでるかい?」
「まあ、そこそこ」
ヴィルテは答えた。
そして、ふと気になった。
「え、わたしの知らないところで、わたしについてあまり話さないでほしいです」
「仕方ないさ。わたしたちは感覚と経験を同期して共有してるからねぇ」
「そうですか……」
ヴィルテは少し考えた。
そういえば、ヨハンナたちは分身なのだった。
同じ顔をしているだけではない。
互いの経験を共有しているというのだから、なんとも奇妙な話だった。
「まあ、楽しんでますよ。昨日今日は、特に変な人とも知り合いましたし」
「ふっふっふ、言うねぇ」
「まあ、嫌いじゃないですけど」
「良かったよ」
哲学ヨハンナは笑った。
「実はねぇ、ゲーミングヨハンナと悟りヨハンナがきみを気に入っててねぇ。それで、ここに来てみたというわけさ」
「そうですか」
ヴィルテは、隣の外務大臣を見た。
「忙しいのに、わざわざご足労いただきありがとうございます。でも、ご期待に添えるようなものは持っていないかと思います」
「構わないさ」
哲学ヨハンナは、ゆったりとした口調で答えた。
「蕎麦が食べたいからOic Cornerに行く人もいれば、ラジオヨハンナのトークが聞きたいからOic Cornerに行く人もいる」
「はい」
「わたしは、きみと話したいからここに来た」
哲学ヨハンナは、湯面に浮かんだ小さな泡を指先でつついた。
「そして、この時間からなにを得るかはわたし次第さ。きみはなんの責任を負うこともない」
「まあ、なら良いですけど」
「ふっふっふ」
哲学ヨハンナは、また目を閉じた。
ヴィルテも湯船の縁に背中を預けた。
夜風が冷たかった。
しかし、湯に浸かっている身体は暖かい。
遠くに見える街並みには、まだ多くの明かりが灯っていた。
中央文化区画の方角だろうか。
建物の屋上からは、夜のカラディシアを広く見渡すことができた。
「ところで、カラディシアのどこが一番気に入った?」
「えー……」
ヴィルテは少し考えた。
「Oic Placeですかね」
「ほう。中央文化区画ではなく?」
「あ、そっちも良いですよね」
「珍しいねぇ。だいたいの子は中央文化区画を真っ先に挙げるんだけどねぇ」
「まあ、まだあんまり見れてないので」
ヴィルテは肩をすくめた。
カラディシアに来て、まだ二週間。
毎日のように街を歩いてはいるものの、行ったことのない場所はたくさんあった。
中央文化区画も、その一つだった。
何度か足を運んだことはある。
しかし、広場や大聖堂の周辺を歩いた程度で、まだ隅々まで見て回ったわけではない。
Oic Placeのように、何時間も過ごした場所ではなかった。
「ふっふっふ」
哲学ヨハンナは、ゆっくりと目を開けた。
「良かったら今日、一緒にまわるかい?」
「え」
ヴィルテは隣を見た。
哲学ヨハンナは、湯船の縁に頭を預けたまま、こちらを見ていた。
つい先ほどまで、働きたくないだの、だるいだのと言っていた人だった。
しかも外務大臣だ。
その外務大臣が、これから一緒に街を歩こうと言っている。
「……今日ですか?」
「そうだねぇ」
哲学ヨハンナは、にこりと笑った。
湯気が二人の間を通り過ぎていった。




