3 勢いを増す吹雪
午後十一時。
ヴィルテのスマートフォンに、ようやくゲームのホーム画面が表示された。
青白い光が顔を照らす。
窓の外では、まだ雪が降り続いていた。
東区画の夜景は、もうほとんど見えない。少し前までは窓の向こうに街灯や建物の明かりが浮かんでいたのだが、いまは吹きつける雪の向こうで、黄色や白の光が滲んでいるだけだった。
風が吹くたび、窓に雪がぶつかる。
それでも、Oic Placeの中は暖かい。
暖炉では薪が燃え、ソファでは何人かが毛布に包まれていた。少し前まで話していた四人組も、いつの間にか二人になっている。食事をしていた家族は片づけを始め、窓際では本を開いたまま眠っている老人がいた。
ヴィルテは画面を見る。「これでいいんですか?」
「いいよ。まずチュートリアルだねぇ」ヨハンナが隣から覗き込む。
ヴィルテは指示された通りに画面を触った。
移動。
攻撃。
スキル。
敵を倒す。
「……結構忙しいですね」
「まだ何も始まってないよ」
「これで?」
「ふっふっふ」
ヴィルテは少し嫌な予感がした。
それでも続けた。
ヨハンナは新たなプレイヤーを一人増やせることが嬉しいらしく、聞いてもいないことまで説明してくる。「それが通常攻撃だねぇ。そっちがスキル。レベルが上がったら取れるものが増えるよ」
「はい」
「ミニマップも見るんだよ」
「これ?」
「そうそう」
「自分も見ないといけないし、地図も見るんですか?」
「そうだねぇ」
「忙しい……」
チュートリアルが続く。
その途中でヨハンナが立ち上がった。「ちょっとトイレ行ってくるよ」
「はい」
数分後。
戻ってきたヨハンナは、行ったときより明らかに荷物が増えていた。
カフェ・オ・レが二杯。
ミックスナッツが一袋。
エナジードリンク。
さらに、細長い赤紫色の菓子のようなものを六本抱えている。
テーブルの上へ次々と置いた。
「はい」
「ありがとうございます」ヴィルテはカフェ・オ・レを受け取る。そして、六本のそれを見る。「これは?」
「ラズベリーブランバー」ヨハンナが一本かじった。
「六本ありますけど」
「箱で置いてあったからねぇ」
「全部持ってきたんですか?」
「六本だけだよ」
「……そうですか」ヴィルテはそれ以上追及しなかった。その横にある缶を見つける。「あ、エナジードリンク」
「好きなのかい?」
「かなり」ヴィルテの声が、ほんの少しだけ明るくなった。
「よかったねぇ」
「はい」
ヨハンナがミックスナッツの袋を開ける。
ヴィルテはテーブルを見回した。「ポテトチップスは?」
「そういえばないねぇ」
「そうですか」
ヨハンナはブランバーをもう一口かじった。「そういえば、半年前なんだけどねぇ。わたしがまだここに住み着く前のことさ。Oic Cornerっていう、だいたい交差点の隅に見かけるコンビニわかるかい?」
「あ、そばとおにぎりとおでんがある」
「そうだねぇ。そこで引きこもるために大量に食料を買ったんだけどねぇ、確か、ポテチは筒状の箱に入ってたねぇ」
「プリングルスみたいな?」
「そうだねぇ」
ヴィルテは少し考えた。「なんでそんな話を?」
「いや、この国にはまだないものがたくさんある。ポテトチップスもなかったんじゃないかなって思って口を開いたんだけどねぇ、喋ってる途中で、そういえばあったってことを思い出したのさ」
「は、はぁ」
「ポテトチップスは好きかい?」
「ええ」
「わたしはのりしおが好きだねぇ。ヴィルテは?」
「サワークリームオニオンが好きです」
「良いねぇ」
自動ドアが開いた。
吹雪の音が、突然室内へ入り込んできた。
風。
雪。
それから一人の男。
頭から靴まで雪まみれだった。
「うわ……」ヴィルテが思わず呟く。
男は入口で身体についた雪を払い落とした。
床に白い塊が散らばる。
コートを脱ぎ、ハンガーに掛ける。そのまま荷物を持って、奥のバスルームへ歩いていった。
自動ドアが閉じる。
再び、暖炉の薪が爆ぜる音のほうが大きくなった。
「ひどい雪だねぇ」
「ですね」
ヨハンナが窓を見る。「デリバリー頼もうかと思ったけど、これじゃあねぇ」
「ドライバーさんも来れないですよ」
「悪天候手当がつくから、運んでくれる人もいるけどねぇ」
「そうなんですね」ヴィルテは、さっきの男が消えた方向を見た。
ヨハンナもそちらを見る。「そういえば、ここの屋上には露天風呂があるんだよねぇ」
「露天風呂?」
「温泉さ。日本や、あとはアイスランド、ハンガリーとかにもあるねぇ。公衆浴場だよ」
「へぇ、良いですね」
「今なんか最高だろうねぇ」
ヴィルテは窓を見た。雪が横向きに飛んでいる。「……寒くないですか?」
「湯に入るまでがねぇ」
「ですよね」
「水着が必要だけどねぇ。ここで買うこともできるよ」
「いくらくらい?」
「いくらだったかなぁ。三百レフとかだった気がするねぇ」
「安い」
「買うかい?」
「考えときます」
「ふっふっふ」
ヴィルテはスマートフォンへ目を戻した。
いつの間にかチュートリアルが終わっている。
今度は、人間を相手にするらしい。
「これ、さっきのと同じようにやればいいんですよね?」
「まあ、最初はねぇ」
「最初は?」
「やればわかるよ」
「怖いこと言わないでください」
最初の対人戦が始まった。
数分後。
「ヨハンナさん」
「なんだい?」
「このゲーム難しいです」
「ふっふっふ、バーサーカーブーツだよ」
「なんですか」
「まずはバーサーカーブーツを買うのさ。その後はルインドキングブレード」
「はい」
「序盤はバタフライエフェクトが起きないからねぇ。だいたい初手は決まってるのさ。その後は、まあ、プレイヤーたちの行動の相乗効果でどんどん戦場を読むのが大変になるね。そして楽しいのはそこからさ」
「なるほど。なんか難しそうですね」
「面白いよ」
ヴィルテは画面を見る。
敵が来た。
慌てて逃げる。
追ってくる。
「来てます」
「来てるねぇ」
「どうすればいいんですか」
「逃げる」
「逃げてます」
「じゃあ、そのまま逃げよう」
「死にました」
「そういうこともあるねぇ」
「……」
しばらくして、一試合が終わった。
時計を見る。
十一時半。
「まあ、とりあえずもう一戦やってみます」
「いいねぇ」
その前に、ヴィルテは立ち上がった。「ちょっと、さっきの食べ物見てきます」
「わたしも行こう」
二人で無料配布の食料コーナーへ向かった。
夜が深くなり、Oic Placeの中はさらに静かになっていた。
さっきまでテーブルを囲んでいた人たちはいない。
照明も一部が落とされている。
ソファには毛布の膨らみがいくつも並び、その隙間を、起きている人間だけが静かに歩いていた。
誰かがページをめくる音。
自動販売機の低い駆動音。
遠くのシャワールームから水の音。
そして窓の外では、変わらず吹雪が荒れている。
無料配布コーナーには冷蔵庫があった。
その横にはカラーボックスが並んでいる。
ヴィルテがしゃがみ込んだ。「ビスケットもあるんですね」
「魚肉ソーセージもあるねぇ」
「マフィンだ」
「イワシの蒲焼だねぇ」
「結構あるんですね」
「食糧廃棄の多さは先進国の課題だねぇ」
ヴィルテは冷蔵庫を開けた。「水ももらっちゃお」
「いくねぇ」
「タダですし」一本取る。そこで、ヴィルテの手が止まった。「あ」
「なんだい?」
「お腹減ったらここ来れば良いんだ」
ヨハンナが笑った。「気づいちゃったねぇ」
ヴィルテは食品を一つ手に取った。「賞味期限切れって言っても、そんなにでしょう?」表示を見る。「あ、一週間……」
「そうだねぇ。七割引シール貼ってあるだろう? これらは全部商品だったものさ」
「売れ残りですね」
「だけど、消費期限切れではない。非常時用の備蓄倉庫の中で賞味期限を迎えたものとかも並ぶねぇ」
「へぇ」ヴィルテは棚を眺めた。
よく見ると、二種類ある。
黄色い七割引シールが貼られているもの。
何も貼られていないもの。
おそらく後者が備蓄倉庫から回ってきた食品なのだろう。
数えてみれば、七割引の商品が三、備蓄倉庫から来たらしいものが七といったところだった。
マフィン。
缶詰。
ビスケット。
保存パン。
水。
見たことのないパッケージのスープ。
ヴィルテは少し楽しくなってきた。
「ちなみに、味に期待はしないほうが良いよ」
「そうなんですか」
「まあ、美味しいものがタダなら、みんなスーパーじゃなくてここに来るからねぇ」
「まあ、それはそう」
「ふっふっふ」
ヴィルテはマフィンを手に取った。「これもらいます」
「それにするのかい?」
「はい」ソファへ戻る途中で袋を開けた。一口。「……」
ヨハンナが横を見る。「どうだい?」
「水ください」
ヨハンナが笑った。「だから言っただろう?」
ヴィルテは水の蓋を開け、一口飲んだ。「パサパサです」
「一週間だからねぇ」
もう一口食べる。やっぱりパサパサしている。「でも食べられます」
「そういう棚なのさ」
席へ戻った。
テーブルの上は、さっきよりさらに雑然としていた。
カフェ・オ・レ。
エナジードリンク。
ミックスナッツ。
ラズベリーブランバー。
水。
マフィン。
スマートフォン。
ヴィルテは座り、マフィンを水で流し込んだ。
窓の外を見る。
吹雪は止む気配がない。
けれど、もう帰れないことを気にしてはいなかった。
むしろ明日は、中央文化区画へ行ってみたい。
あの本に載っていた美術館も見たい。
屋内市場も気になる。
それから、この建物の屋上にあるという露天風呂。
三百レフ。
水着。
覚えておこう。
カラディシアに来て、まだ二週間。
知らないものは、たくさんある。
ヴィルテはそれが少し嬉しかった。
「ヴィルテ」
「はい?」
「始まってるよ」
「あ」慌ててスマートフォンを見る。もう次の試合が始まっていた。「バーサーカーブーツでしたっけ」
「そうそう」
「その次が……」
「ルインドキングブレード」
「それだ」
ヴィルテは買った。
キャラクターを動かす。
さっきよりは、少しだけ分かる。
敵が見える。
味方が前へ出る。
ヴィルテもついていく。
「ヨハンナさん」
「なんだい?」
「これ、さっきより楽しいです」
「ふっふっふ」ヨハンナは二本目のラズベリーブランバーをかじった。
午前零時まで、あと二十分ほど。
Oic Placeでは、また一つ照明が落ちた。
吹雪の向こうにあった街の明かりも、いつの間にかほとんど見えなくなっている。
暖炉の火だけが、二人のいる一角を橙色に照らしていた。
ヴィルテはもう、窓を見ていなかった。




