とある平和な午前
昼酒と礼拝
とある国の昼下がり。
あるアパートの中庭で、一人の男がベンチに腰を下ろし、朝から酒を飲んでいた。空になった缶は足元の袋に収められ、手元には新しい缶が一本。男は時折、誰に聞かせるでもない鼻歌を歌いながら、気持ちよさそうに空を眺めていた。「うぃーっく」
そこへ、三十人ほどの集団がやってきた。ムスリムだ。「やあ、酔っ払いさん」
「やあ、ムスリムさん」男は缶を持ち上げて挨拶した。
「気持ちよく酔っ払っているところ悪いんだが、ここで祈りたいから出ていってくれるかい?」
「なるほど。祈りは大事だね。でも、先にここで飲んだくれてたのは俺だよ」
「でも、こちらは三十人だ」
「関係ないね」
「出ていってくれよ」
「警察呼ぶぞ」
「呼びなよ。呼ばれた方も困るだろうさ」
酔っぱらいはスマホを取り出した。
ムスリムの代表者がそれを手で制す。「いや、良い、こちらが呼ぼう。あ、もしもし」
「先にここにいたのは俺だよ」酔っぱらいは缶ビールを一口啜った。
数分後。
自転車に乗った警官が中庭へやってきた。「やあ、どうしたんだい?」
ムスリムの代表者が事情を説明した。
警官は時々頷きながら最後まで話を聞き、それからベンチの男に顔を向けた。「なるほど。つまり、この飲んだくれが先にここにいたわけだね」
「そうなんですよ!」
「じゃあ、君たちが場所を選ぶべきだ。先にここにいたのは彼なんだから」
「へへん」
「そんなぁ」
飲んだくれは勝ち誇った顔で缶を傾けた。
「しかし、我々は三十人もいるんですよ!」
「うん。それは聞いたよ」
「三十人が祈るための場所を、たった一人の酔っ払いに譲れというんですか!」
「いや、だからねえ」警官は困ったように頬をかいた。「先にここにいたのは彼なんだよ」
「酔っ払うことの方が、祈りよりも大事だというのか!」
「そうは言ってないよ。論点をすり替えないでほしいねえ」警官はベンチを指さした。「つまり、どっちが先にそこにいたのか。そして、どっちがどっちに対して、そこを譲れと言っているのかという話さ」
「ですが!」
「だいたい、この飲んだくれだって、もしかしたら六連勤を頑張ったご褒美に、ここで朝から飲んだくれているのかもしれないじゃないか」
「いや、毎日この時間からここで飲んだくれてるけど」
「おい、あまり困らせないでくれよ」
「うぃーっく」酔っ払いは笑った。
「ほら見ろ! 毎日朝から飲んだくれているそうじゃないか!」
「うん。だから?」
「そんな人間のために、我々が礼拝の場所を譲らなければならないのか!」
「いや、だからねえ。そもそもこのケースでは、先にここにいたのは、この見下げ果てた飲んだくれでねえ、君たち三十人が、この飲んだくれに場所を譲れと言ってるんだよ」
「うぃーっく」
「ね? わたしもねえ、あまりこんな酔っ払いの側に立ちたくはないんだけどねえ、先にここで楽しんでたのに、どいてくれって言われたら、やっぱり嫌な気持ちするよねえ」
代表者は腕を組んだ。「しかし、礼拝は大切なことです」
「うん。そうだねえ」警官は頷いた。「じゃあ、逆に考えてご覧よ。いいかい?」警官は少し背中を丸め、酔っ払いのほうを真似てみせた。「おう、おれぁ今からここで飲んだくれるからよう、そこどいてくんねーか、ムスリムさんたちよう」
「うぃーっく」
「きみはちょっと黙っててね」警官は代表者に向き直った。「どうだい? こんなことを言われて、どきたいかい?」
「そんな言い方をされたんじゃ、どこうにもどけないな」
「そうだろう?」警官は頷いた。「じゃあ、今度は丁寧に言ってみよう」姿勢を正し、軽く頭を下げる。「あのう、申し訳ありませんが、今からここで飲んだくれたいので、どこか別の場所に行ってくれませんか?」
「……嫌な気持ちになるな」
「そういうことさ」
代表者はしばらく黙っていた。
警官は腕時計を見た。「ところで、君たち、隣のアパートの中庭には行ったかい?」
「行きましたよ。そこにも酔っ払いがいたんです」
「そうかい。じゃあ、ちょっと待っててね」警官は自転車にまたがった。
隣の中庭では、もう一人の酔っ払いがベンチに寝そべっていた。
「きみ、そこの飲んだくれくん」
「うぃーっく。なんだよう」
「隣の中庭にも飲んだくれがいるよ。そちらに移動できるかな」
「なんでだよう」
「ムスリムさんたちも祈りたがってる」
「俺が先にいたんだぞ」
「うん、そうだねえ。ムスリムさんたちもね、三分前に同じ事情でこっちに来たんだよ。そしたらきみがいた。このままじゃ祈れないだろう?」
「そんなの知るかよう」
「まあまあ、あっちにも飲んだくれがいるんだ。飲んだくれ同士、昼から一緒に飲んだくれてればいいじゃないか」
「……ったくよう」男は面倒くさそうに起き上がり、飲みかけの缶を手にした。「わかったよう。どこだよ、そいつ」
「すぐ隣だよ。ありがとうねぇ」警官は男を案内して、元の中庭に戻った。
「お、帰ってきたのか」最初の酔っ払いが缶を掲げた。
「友達を連れてきたよ」
「友達じゃねえよう」
「まあまあ。仲良くしてね」
「なんだお前、朝から飲んでんのか?」
「おう。お前もか?」
「おう」
「何飲んでんだ?」
「ビール」
「俺もだ」
二人は顔を見合わせた。
「……乾杯するか?」
「おう」
缶が軽くぶつかった。
警官はそれを見届けてから、隣の中庭へ戻った。三十人のムスリムたちが待っている。
「お待たせ。あちらの人が移動してくれたよ。もう使って大丈夫だ」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。じゃあ、よい一日を」警官が自転車にまたがろうとすると、代表者が声をかけた。
「ところで、おまわりさん」
「うん?」
「最初から、あの二人を一緒に飲ませればよかったのでは?」
警官はしばらく考えた。「……そうだねえ」そして、腕時計を見た。「まあ、解決したからいいじゃないか」警官は自転車を漕ぎ出した。
中庭では礼拝が始まった。
その隣では、二人の酔っ払いが昼酒を続けていた。
「ところでお前、仕事は?」
「してねえよ」
「俺もだ」
「……乾杯するか?」
「おう」
遠ざかる警官の背中に、二度目の乾杯の音が届いた。




