2 Oic Placeのヨハンナ
午後十時二分。
「……じゃあ、やってみます」
「いいねぇ。スマホ持ってるかい?」
「はい」
ヴィルテはスマートフォンを取り出した。
「ワイルドリフトで検索してみなよ」
「ワイルド……」
「リフトだねぇ」
「あ、出てきた」
画面には、何人もの人物が武器を構えているイラストが表示されていた。
ヴィルテはインストールを押した。
残り時間、二十三分。
「……結構かかりますね」
「そうだねぇ。ちょっとゲームしてるよ」
ヨハンナはリクライニングチェアに身を沈め、再び自分のスマートフォンを操作し始めた。
ヴィルテは、食べかけのハンバーガーを片づけ、残っていた蕎麦の汁を飲み干した。
さて。
二十三分。
やることがなくなってしまった。
彼女は立ち上がり、壁一面を占める窓へ向かった。
外は、相変わらず真っ白だった。
「……うわあ」
思わず声が漏れた。
巨大な窓の向こうを、雪が横向きに流れている。
照明に照らされた街路樹が、ときおり猛烈な風に煽られて大きく揺れた。雪を被った枝がしなり、その上に積もっていた雪が、次の瞬間にはどこかへ吹き飛ばされていく。
遠くには、明かりの点いた建物がいくつも見えた。
そのうちの一つが、ふっと消えた。
次いで、その隣も。
どうやら、店が閉まったらしい。
ヴィルテは窓ガラスに手を当てた。
冷たい。
いや、思ったほどでもない。
少し離れたところでは、二人の女性が電気毛布にくるまって、同じように外を眺めていた。
「あれ、すごいね」
「明日も降るのかな」
「やだなあ」
そう言いながら、二人は笑っていた。
ヴィルテはスマートフォンを取り出し、天気予報を開いた。
深夜まで大雪。
明け方から次第に弱まる見込み。
ただし、強風には引き続き注意。
「……明日には止んでるといいな」
何しろ、家に帰らなければならない。
学校だってある。
もっとも、この吹雪なら休校になるかもしれないが。
それはそれで、ちょっと嬉しい。
ヴィルテは、西区画にある自宅のことを思い出した。
そうだ。
まだ連絡していなかった。
午後十時九分。
『もしもし?』
「ママ?」
『ヴィルテ? どうしたの? 今どこ?』
「えっと、東区画」
『東区画?』
「うん」
『帰ってきてないの?』
「帰れなくなった」
『ええっ!?』
ヴィルテは少しだけスマートフォンを耳から離した。
「吹雪でさあ」
『だから早めに帰ってきなさいって言ったでしょ!』
「いや、こんなに降ると思わなかったし……」
『今、外なの?』
「違う違う! 建物の中!」
『どこ?』
「オイック……プレイス?」
『Oic Place?』
「うん。知ってる?」
『知ってるわよ。そこにいるの?』
「うん」
母親の声が、少し落ち着いた。
『じゃあ、今日はそこで泊まっていきなさい』
「そうするつもり」
『ちゃんと寝るところある?』
「あるよ。マットレス借りた」
『ご飯は?』
「食べた。蕎麦とハンバーガー」
『両方?』
「うん」
『……おいしかった?』
「おいしかった」
『そう』
電話の向こうで、母親が誰かに話しかける声がした。
父親だろう。
何やら短い会話が交わされたあと、再び母親が電話に出た。
『明日の朝も雪がひどかったら、無理して帰ってこなくていいからね』
「うん」
『学校にも連絡しておくから』
「ありがと」
『それから、暖かくして寝なさいよ』
「電気毛布も借りた」
『あら、いいじゃない』
「うん。すごいよ、ここ」
ヴィルテは、もう一度室内を見渡した。
暖炉。
マットレス。
寝転がっている人たち。
その向こうには、ロフト。
キッチンの方から、電子レンジの終了音が聞こえてきた。
「なんか、家より広い」
『そりゃそうでしょうね』
「しかも無料」
『いい国ねえ』
「うん」
ヴィルテは頷いた。
引っ越してきて二週間。
初めて、この国に住んでいてよかったと思ったかもしれない。
『じゃあ、気をつけてね』
「はーい」
『おやすみ』
「おやすみ」
通話を切った。
ヴィルテは、スマートフォンをポケットにしまい、再び窓の外を眺めた。
父親と母親は、今ごろ何をしているのだろう。
テレビでも見ているのかもしれない。
それとも、もう寝てしまっただろうか。
ふと、少しだけ家が恋しくなった。
だが。
振り返れば、暖炉がある。
その周りでは、知らない人たちが笑っている。
何となく、寂しくなかった。
午後十時十六分。
ヴィルテは、室内を歩いていた。
もう少し、この施設を探検してみたかった。
暖炉の向こうでは、四人組の女子大学生が折り畳みテーブルを囲んでいた。
どうやら、カードゲームをしているらしい。
少し離れた場所では、男性がマットレスに寝転がり、分厚い本を読んでいた。その隣には、大きな鞄と、脱ぎっぱなしの靴下が置かれている。
ロフトへ続く階段の下には、何台もの折り畳み椅子が積み重ねられていた。
壁際には、本棚。
そして、その隣に、見慣れたものがあった。
「あ」
ウォーターサーバーだ。
ヴィルテは近づいた。
冷水。
常温水。
お湯。
「……お湯も出るんだ」
水筒に飲み物を補充している女性がいた。
ヴィルテは、その隣に置かれた紙コップを一つ手に取った。
しかし。
お湯だけでは、少し味気ない。
何かないだろうか。
周囲を見回すと、壁に小さな案内表示があった。
飲料・軽食。
受付端末にて購入可能。
コーヒー、お茶、スープ。
「へえ」
ヴィルテは、入口の受付端末へ向かった。
先ほど、マットレスを借りるときに使った端末だった。
画面を操作する。
コーヒー。
紅茶。
緑茶。
ココア。
カフェ・オ・レ。
カフェ・オ・レ。
ヴィルテは、その文字を指で押した。
商品が表示される。
粉末状のインスタントコーヒーに、ミルクと砂糖が入ったスティックタイプ。
価格、15レフ。
「やっす」
ヴィルテは、もう一度価格を確認した。
15レフ。
間違いない。
決済を済ませると、端末の横にある小さな商品取出口から、一本のスティックが出てきた。
ヴィルテはそれを手に取り、ウォーターサーバーへ戻った。
紙コップに粉末を入れる。
お湯を注ぐ。
白い粉が、渦を巻きながら溶けていった。
備え付けのマドラーでかき混ぜる。
カフェ・オ・レの完成だ。
「……いいね」
ヴィルテは一口飲んだ。
甘い。
そして、暖かい。
もう一口。
うまい。
ヴィルテは、満足そうに頷いた。
今日は、セーターを買わなくて正解だったかもしれない。
午後十時二十三分。
ヴィルテが暖炉のそばへ戻ると、ヨハンナはまだゲームをしていた。
相変わらず、ものすごい速さで親指を動かしている。
「……」
ヴィルテは、その隣に腰を下ろした。
「買ってきました」
「おや、何を買ったんだい?」
「カフェ・オ・レです」
「いいねぇ」
「十五レフでした」
「安いねぇ」
ヨハンナは、画面から目を離さなかった。
「あとでわたしも買おうかねぇ」
「コーヒー好きなんですか?」
「好きだねぇ」
「どれくらい飲むんですか?」
「一日六杯くらいかな」
「……」
ヴィルテは、ヨハンナの足元に転がっている空の缶を見た。
コーヒーではなさそうだった。
シュガーフリー。
エナジードリンク。
なるほど。
ヴィルテは、何となく納得した。
ヨハンナの画面に、勝利を知らせる文字が表示された。
「ふっふっふ……」
「勝ったんですか?」
「勝ったねぇ」
「おめでとうございます」
「ありがとう」
ヨハンナは、スマートフォンをいったん置き、大きく背伸びした。
「ふぁあ……」
それから、ヴィルテを見た。
「インストールは終わったかい?」
「あ、そうだ」
ヴィルテはスマートフォンを取り出した。
ダウンロード完了。
しかし、アプリを起動すると、今度は追加データのダウンロードが始まった。
「……まだある」
「あるねぇ」
「結構大きいゲームですね」
「そうだねぇ」
ヨハンナは、カフェ・オ・レを飲むヴィルテを眺めた。
「……おいしそうだねぇ」
「おいしいですよ」
「ちょっと買ってこようかな」
そう言いながら、ヨハンナは再びスマートフォンを手に取った。
ヴィルテは、しばらく待った。
ヨハンナは動かなかった。
「……行かないんですか?」
「次の試合が終わったらねぇ」
「……」
ヴィルテは、暖炉を見た。
薪が燃えている。
大きな炎が、ゆらゆらと揺れていた。
ぱちぱち、と薪が弾ける。
ときおり、小さな火の粉が舞い上がった。
ヴィルテは電気毛布を肩まで引き上げた。
暖炉から伝わってくる熱が、頬を暖める。
いい匂いがした。
木の燃える匂い。
コーヒーの匂い。
それから、どこかで誰かが食べているハンバーガーの匂い。
窓の外では、相変わらず猛吹雪が続いていた。
ここに来てから、もう一時間近く経つ。
先ほどまで寒さで痛かった指先は、すっかり暖まっていた。
「……」
ヴィルテは、ぼんやりと炎を見つめた。
すると。
「いいところだろう?」
隣から、ヨハンナの声がした。
「うん」
ヴィルテは頷いた。
「ずっといられそうじゃないか」
「そうですね。どれくらいいるんですか?」
「半年くらいかな」
「え……」
ヴィルテは、ヨハンナを見た。
ヨハンナは、何事もなかったかのようにスマートフォンを操作している。
「……半年?」
「半年だねぇ」
「ここに?」
「ここに」
「……住んでるんですか?」
「そうだねぇ」
「……」
ヴィルテは、もう一度室内を見渡した。
暖炉。
マットレス。
シャワー。
ランドリー。
キッチン。
確かに、生活に必要なものは揃っている。
だが。
「……半年も?」
「半年もだねぇ」
「飽きないんですか?」
「飽きないねぇ」
「……」
ヴィルテは、少し考えた。
「お仕事は?」
「今かい?」
「はい」
「ジャングルだねぇ」
「……?」
ヴィルテは首を傾げた。
ヨハンナは、画面の中で森を走り回っていた。
「……え、職業が?」
「そうだねぇ。ジャングル専門だねぇ」
「……」
ヴィルテは、また暖炉を見た。
この人には、あまり深く関わらない方がいいかもしれない。
そんな気がした。
午後十時四十二分。
「あ、終わりました!」
「おや、来たねぇ」
ヴィルテはスマートフォンをヨハンナに見せた。
画面には、ゲームのタイトルが表示されていた。
League of Legends: Wild Rift。
「じゃあ、始めようか」
「はい」
「チュートリアルがあるから、まずそれをやってみなよ」
「わかりました」
ヴィルテは画面を操作した。
いくつかの説明が表示される。
キャラクターを動かす。
敵を攻撃する。
スキルを使う。
タワーを破壊する。
ヴィルテは、言われるままに操作した。
思ったより簡単だった。
少なくとも、最初は。
「へえ」
「どうだい?」
「結構面白いですね」
「ふっふっふ……」
ヨハンナは、満足そうに笑った。
「きみ、ゲームは普段やるのかい?」
「そんなには。友達とたまにやるくらいです」
「そうかい」
「ヨハンナさんは?」
「ずっとやってるねぇ」
「でしょうね」
ヨハンナは小さく笑った。
ヴィルテは、画面を操作し続けた。
敵を倒す。
タワーを破壊する。
すると、今度は別の説明が表示された。
ドラゴン。
バロンナッシャー。
ジャングル。
ヴィルテは首を傾げた。
「……ジャングルって、ここですか?」
「そうだねぇ」
「さっき、ヨハンナさんが仕事してるって言ってたところ?」
「そうだねぇ」
「……」
ヴィルテは、少しだけ納得した。
少なくとも、この人が何をしているのかはわかった。
仕事ではなかった。
午後十時五十三分。
「終わりました!」
「いいねぇ」
ヴィルテは、スマートフォンを置いた。
チュートリアルを一通り終えたところだった。
ヨハンナは、自分のスマートフォンを操作しながら尋ねた。
「どうだった?」
「面白かったです」
「ふっふっふ……。じゃあ、一緒にやってみようか」
「え、もう?」
「もうだねぇ」
「まだ全然わかんないですよ」
「大丈夫さ。わたしがついてるからねぇ」
ヴィルテは、少し迷った。
「……何使えばいいんですか?」
「そうだねぇ。ジンクスはどうだい?」
「ジンクス?」
「銃を持ってる女の子さ」
ヴィルテは、キャラクター一覧を開いた。
青い髪の女の子が表示された。
「あ、この子?」
「そうだねぇ」
「可愛いですね」
「そうだねぇ。きみも可愛いよ」
「……えっ」
「じゃあ、わたしはソナちゃんだねぇ」
「……?」
ヴィルテは、ヨハンナのスマートフォンを覗き込んだ。
青い髪の女性が、妙な楽器を持っていた。
「この人ですか?」
「そうだねぇ」
「何する人なんですか?」
「回復とか、バフとかだねぇ。きみをサポートするのさ」
「へえ」
「わたしが守ってあげるよ」
ヴィルテは、少し嬉しくなった。
初心者に親切な人なのかもしれない。
いや、半年もここに住んでいるのだから、親切でなければ少し困る。
ヨハンナは、ゲームの準備を進めていた。
「じゃあ、行こうか」
「はい!」
ヴィルテは、電気毛布を肩にかけ直した。
窓の外では、猛吹雪が続いている。
暖炉の炎が、ぱちぱちと音を立てていた。
時刻は、まもなく午後十一時。
ヴィルテ・コントリマイテ、十五歳。
カラディシアへ引っ越してきて、二週間。
初めて訪れたOic Placeで、初めて出会った女性に誘われ、初めてのオンライン対戦ゲームを始めようとしていた。
そして、その女性は。
「ふっふっふ……。ペンタキル取れるかなぁ」
初心者を守るという当初の目的を、すでに忘れかけていた。




