1 ヴィルテ・コントリマイテ
午後九時。
ヴィルテ・コントリマイテは、灰色のセーターを棚に戻した。
「ありがとうございました。またお越しください」
店員の声に会釈を返して、店を出る。
買わなかった。
今日、中央文化区画で訪れた店は、これで十二軒目だった。セーターも、靴も、鞄も、アクセサリーも見た。試着もしたし、店員に勧められたコートも羽織った。
何も買わなかった。
ヴィルテは十五歳だった。
リトアニアからカラディシアへ引っ越してきて、まだ二週間しか経っていない。西区画のアパートで両親と暮らし、今週から学校にも通い始めた。
今日は初めて、一人で中央文化区画へ遊びに来た。
ヴィリニュスにも古い建物はたくさんあったが、カラディシアの中央文化区画は、何だか妙だった。
古い教会のすぐ隣に真新しいガラス張りの店があり、その隣に、建物全体が植物に覆われたカフェがある。大聖堂の裏手には、いかにも歴史がありそうな石造りの建物が並んでいるのに、一本路地を抜けると、建設されたばかりのような広場に出る。
昔からあった街なのか、新しく造った街なのか、よくわからなかった。
だが、店がたくさんあった。
それだけで、今日のヴィルテには十分だった。
スマートフォンを取り出し、撮影した服の写真を眺める。
やっぱり、さっきのセーターは悪くなかった。
明日、もう一度見に来てもいいかもしれない。
そう考えながら顔を上げたとき、ヴィルテは、通りの様子がおかしいことに気づいた。
雪が降っていた。
それは知っていた。
一時間ほど前、カフェで温かいコーヒーを飲んでいたときから、窓の外には大きな雪片が舞っていた。
しかし、いまは。
「……え?」
通りの向こうが見えなかった。
白いものが、ものすごい速さで横に流れている。
店の前に置かれた看板が、風に煽られて大きく揺れた。
ヴィルテが見ていると、隣の店から出てきた男性が、扉を閉めようとして苦戦し始めた。
スマートフォンが震えた。
画面の上に、赤い気象警報が表示されている。
ヴィルテは通知を開いた。
猛烈な吹雪。
不要不急の移動を避け、最寄りの屋内施設に退避するよう案内している。
「……」
ヴィルテは、もう一度通りを見た。
いま出てきた店の扉には、閉店を知らせる表示が出ていた。
午後九時。
カラディシアの店が、次々に閉まり始める時間だった。
「……帰ろ」
家までは遠い。
中央文化区画から西区画へ帰るには、歩けば何時間かかかる。いつもなら自転車を使うのだろうが、今日は買い物をするつもりだったので、身軽な格好で来てしまった。
そもそも、自転車を持っていない。
カラディシアには無料で使えるキックボードがある。
しかし。
ヴィルテは、吹雪の中をものすごい速さで横切っていく雪を見た。
「……無理でしょ」
バスはない。
電車もない。
それは引っ越してくる前に聞いていたし、街を歩いているうちに、何となく理解していた。
普段は、それほど不便にも感じなかった。
街には徒歩で行ける場所に店があり、道路は平らで、自転車もキックボードも走りやすい。建物に沿って、ゆっくり動く歩道まである。
だが、今日ばかりはバスが欲しかった。
一台でいいから。
できれば、暖房の効いた大きなやつが。
「……」
ヴィルテはスマートフォンで地図を開いた。
近くに、見慣れない名前が表示されていた。
Oic Place
徒歩十八分。
十八分。
画面の向こうにある建物は、中央文化区画を抜けた東区画にあった。
何の施設なのか、よくわからない。
名前からして、店だろうか。
ヴィルテは施設の案内を開いた。
休憩、食事、シャワー、ランドリー、短期滞在。
一番下に、小さく宿泊用寝具の貸し出しについても書いてある。
「……ホテル?」
宿泊料金を探した。
それらしいものは見つからなかった。
代わりに、空いているマットレスの数が表示されていた。
ヴィルテはしばらく画面を眺めた。
屋内に入れる。
暖かそうだ。
とにかく、今はそれで十分だった。
彼女はフードを被り、覚悟を決めて通りへ出た。
その瞬間。
「ひゃっ!」
息ができなくなった。
正面から叩きつけてきた雪が、顔に張りつく。
ヴィルテは慌てて背中を向け、建物の壁に身を寄せた。
「何これ……!」
リトアニアでも、雪は降る。
もちろん吹雪もある。
だが、さっきまで服を選んでいた人間に、こんなものを突然浴びせる必要があるだろうか。
スマートフォンの地図を確認する。
青い矢印は、よりによって風上を指していた。
午後九時十三分。
ヴィルテは、中央文化区画から東区画へ続く広い通りを歩いていた。
いや、歩いていたというより、風と戦っていた。
両手をポケットに突っ込み、フードを目深に被る。
前方には、同じ方向に歩いている人が二人いた。
一人は背の高い女性で、もう一人は、女性の腕にしがみついている小さな男の子だった。
男の子は、先ほどから何かを叫んでいる。
風の音で、何を言っているのかわからない。
女性も何かを叫び返している。
ヴィルテは、二人を見失わないように歩いた。
不思議なことに、足元は滑らなかった。
地面には雪が積もり始めているのに、靴底はしっかりと路面を捉えている。
道路の下から、かすかな熱が伝わっている気がした。
ヴィルテは足元を見た。
雪は降り積もるそばから溶け、細い水の流れとなって道路脇へ流れていた。
「……すご」
そう呟いた直後、横殴りの雪が顔面を直撃した。
「ぶっ!」
滑らない。
それは確かに素晴らしいことだった。
しかし、だからといって歩きやすいわけではなかった。
風が強すぎる。
目を開けると痛い。
鼻も痛い。
耳も冷たい。
なにより、どこを歩いているのか、よくわからない。
ヴィルテは再びスマートフォンを取り出した。
濡れた手袋では、画面がうまく操作できなかった。
仕方なく手袋を外す。
「……っ!」
冷たい。
今度は指が痛い。
地図を拡大しようとして、間違えて写真のアプリを開いてしまった。
画面いっぱいに、さっき買わなかった灰色のセーターが表示された。
「今じゃないって!」
慌ててアプリを閉じる。
後ろから、誰かが笑った。
振り返ると、先ほどの男の子だった。
「……」
ヴィルテは、何も言わずに手袋をはめ直した。
午後九時二十七分。
Oic Placeの建物に到着した。
少なくとも、地図によれば到着していた。
ヴィルテは建物を見上げた。
大きい。
いや、大きすぎる。
四階建ての建物が、吹雪の向こうへ延々と続いている。
どこまでが一棟なのか、よくわからなかった。
外壁には、淡い色の照明が埋め込まれていた。雪のせいで光が滲み、建物全体がぼんやりと輝いているように見えた。
出入口らしい場所がある。
ヴィルテは、そこへ向かって走った。
自動扉が開く。
そして、建物に飛び込んだ。
「はあっ……!」
扉が閉まった。
風の音が、突然、小さくなった。
ヴィルテはその場に立ち尽くした。
暖かい。
それから、静かだった。
外では風が唸っているはずなのに、建物の中には、どこかで流れている音楽と、人々の話し声が聞こえていた。
「……生き返った」
ヴィルテはフードを脱いだ。
髪が濡れていた。
袖にも、鞄にも雪がついている。
入口には、濡れた衣類から雪を落とすための広いスペースがあり、壁には温風の吹き出し口が並んでいた。
先ほどの親子も、少し離れたところで上着の雪を払っていた。
男の子がヴィルテに気づいた。
にやっと笑った。
ヴィルテは、わざと怖い顔をしてみせた。
男の子は、さらに笑った。
ヴィルテは建物の中へ進んだ。
そこで、足が止まった。
「……え?」
広かった。
ものすごく広かった。
最初に目に入ったのは、天井から下がるたくさんのランプだった。
その向こうに、巨大な窓が並んでいる。
さらに奥には暖炉があった。
暖炉の周囲には、マットレスが敷かれている。
何人もの若い女性たちが、その上で寝転がったり、食べ物を広げたり、スマートフォンを眺めたりしていた。
折り畳みテーブルを囲んでいる人もいる。
ソファのような椅子に深く座り、コーヒーを飲んでいる人もいる。
奥の壁には大きな時計。
そして、その上に、何やら二階とは違う高さに張り出した空間があった。
ロフトだ。
手すりの向こうに、人の姿が見えた。
「……何、ここ」
ヴィルテは呟いた。
ホテルではない。
ホテルにしては、あまりにも自由すぎる。
カフェでもない。
カフェの床にマットレスを敷いて寝ている人は、普通いない。
それに、みんな自分の家にいるような顔をしている。
ヴィルテは、入口の近くに設置された案内端末へ向かった。
画面に表示されている施設名を確認する。
Oic Place。
間違いない。
その下に、利用できる設備が表示されていた。
シャワー。
ランドリー。
共用キッチン。
寝具の貸し出し。
休憩スペース。
そして、建物全体の案内図。
ヴィルテは、案内図を見た。
「……え?」
四角い建物だった。
ただし、真ん中がない。
中央は中庭になっていて、その周囲を建物がぐるりと囲んでいる。
四隅に、それぞれ広い共用スペースがあった。
今いる場所は、そのうちの一つらしい。
残りの三つも、同じような構造になっている。
四隅の間には、さらに大きな空間が設けられているようだったが、地図では灰色に表示されていた。
ヴィルテは、その灰色の部分を指で触れた。
表示が切り替わる。
可変共用空間。
現在、閉鎖中。
利用人数に応じて開放。
「……?」
よくわからなかった。
少なくとも、今いるこの場所だけでも、十分すぎるほど広い。
ヴィルテは、案内図に表示された寸法を見た。
四十五メートル。
「……四十五?」
学校の体育館より大きい。
しかも、建物の四隅すべてにある。
その上、間にまだ使っていない空間がある。
ヴィルテは、もう一度室内を見渡した。
何だか、変な国に引っ越してきてしまった気がした。
午後九時三十二分。
ヴィルテは受付を探していた。
しかし、それらしいカウンターが見当たらない。
食事をしている人たちの横を通り、暖炉の近くまで歩いた。
そこで、椅子に座っている女性を見つけた。
十八歳くらい。
長い髪。
くたびれた服。
毛布。
スマートフォン。
足元には、空になった飲み物の容器が二つ転がっていた。
女性は、何やらものすごく真剣な顔でスマートフォンを操作している。
声をかけていいものだろうか。
ヴィルテが迷っていると、女性は画面を見たまま口を開いた。
「受付かい?」
「えっ」
「そこの案内端末だねぇ」
女性は、顎で入口の方を示した。
ヴィルテは振り返った。
「……あれが受付なんですか?」
「そうだねぇ」
「あ、ありがとうございます」
「いいよ」
女性は、また画面に視線を戻した。
「……おや。来たねぇ」
ヴィルテは、なんとなく女性のスマートフォンを覗き込んだ。
ゲームだった。
森の中で、何人もの人物が戦っている。
女性の親指がものすごい速さで動いた。
「ふっふっふ……」
小さく笑っている。
どうやら、忙しいらしい。
ヴィルテは受付端末へ戻った。
午後九時四十一分。
手続きを終えたヴィルテは、受付端末から発行された利用番号を確認していた。
実際には、ほとんど何もしていない。
利用者として名前を登録し、寝具を借りたいと入力しただけだった。
案内画面には、空いている寝具保管庫の場所が表示されている。
ヴィルテは指示に従い、壁際に並んだ収納設備へ向かった。
扉を開く。
中には、折り畳まれた薄いマットレスが入っていた。
隣の収納には、電気毛布と小さなランプ。
「……これも?」
表示を確認する。
貸し出し。
どちらも利用できるらしい。
ヴィルテはマットレスと電気毛布を抱え、室内を見回した。
どこに敷けばいいのだろう。
決まった場所があるのだろうか。
誰かに聞こうと思ったが、みんな思い思いの場所でくつろいでいる。
そこで、暖炉の近くにいた女性と目が合った。
先ほどの、ゲームをしていた女性だった。
「好きなところでいいよ」
「えっ、そうなんですか?」
「そうだねぇ。通路だけ空けときなよ」
「はい」
ヴィルテは窓際の、暖炉がよく見える場所を選んだ。
マットレスを広げる。
思ったより厚みがあった。
電気毛布のコードを延ばしてみると、床に埋め込まれた電源口が見つかった。
「……へえ」
床に寝転がってみた。
柔らかい。
暖かい。
目の前には、巨大な窓。
窓の外には、何も見えないほどの猛吹雪。
そして、室内には暖炉の火が燃えている。
ヴィルテは、しばらく呆然としていた。
こんな場所が、無料で使えるらしい。
それも、今夜だけではない。
必要なら、明日も。
あさっても。
案内には、長期利用についても書かれていた。
「……何なの、この国」
呟いてから、少し笑った。
午後九時五十分。
ヴィルテは、空腹だった。
今日は昼食を食べてから、ずっと店を見て回っていた。
途中でコーヒーを飲んだが、それだけだった。
朝から何も食べていないわけではない。
それでも、今は猛烈に腹が減っていた。
ヴィルテは室内を見回した。
向こうのテーブルでは、女子大学生らしい三人組が何かを食べている。
ハンバーガーだった。
別のテーブルには、蕎麦らしいものを食べている人がいる。
湯気が立っていた。
ヴィルテは立ち上がった。
食事の案内を探す。
壁には、共用キッチンへの案内があった。
ヴィルテは、そちらへ向かった。
すると、奥の空間に、シンクや調理台、電子レンジが並んでいるのが見えた。
広い。
そして、綺麗だった。
何人かが料理をしている。
鍋をかき混ぜている女性もいれば、冷凍食品らしいものを電子レンジで温めている男性もいた。
ヴィルテは、手ぶらだった。
食材なんて持っていない。
案内画面を確認する。
食事を注文するには、Oic Eatsというサービスを使うらしい。
「……またOic」
この国に来てから、やたらと目にする名前だった。
ヴィルテは、画面に表示された料理を眺めた。
蕎麦。
カレー。
ハンバーガー。
スープ。
サンドイッチ。
しかも、安い。
「……え?」
もう一度、値段を確認する。
間違っていない。
ヴィルテは、少し悩んでから、温かい蕎麦を注文した。
それから、何となくハンバーガーも追加した。
結局、何も買わなかった一日だった。
食べ物だけは、迷わず買えた。
午後九時五十八分。
ヴィルテは、蕎麦とハンバーガーを載せたトレーを持ち、暖炉の近くへ戻ってきた。
ちょうど、さっきの女性が座っていた場所の隣に、空いているテーブルがあった。
ヴィルテは、そこへ腰を下ろした。
電気毛布にくるまったまま、箸を取る。
熱い蕎麦を啜った。
「……うま」
思わず声が出た。
吹雪の中を歩いたあとの温かい食事は、普段の何倍もおいしく感じられた。
隣では、女性がまだゲームをしていた。
ヴィルテは、少し気になって画面を覗いた。
森の中を、白い仮面の人物と、小さな狼が走っている。
「あの」
「ん?」
「ずっとゲームしてるんですか?」
「そうだねぇ」
「……楽しいですか?」
「楽しいねぇ」
女性は満足そうに笑った。
「ふっふっふ……」
そして、画面の中で何かが起こった。
突然、女性の親指が忙しく動き始める。
画面が光る。
敵らしい人物が倒れる。
もう一人倒れる。
さらに、もう一人。
ヴィルテは、思わず箸を止めた。
「……すご」
「トリプルキルだねぇ」
女性が小さく笑った。
「面白そうだろう?」
ヴィルテは、スマートフォンの画面を見つめた。
窓の外では、まだ猛吹雪が続いていた。
西区画の家までは、歩いて何時間もかかる。
今夜は帰れない。
学校も、明日は休みになるかもしれない。
ヴィルテは、もう一口、蕎麦を啜った。
「……ちょっと面白そうですね」
「ふっふっふ……」
女性は、いかにも嬉しそうに笑った。
「やるかい?」
ヴィルテは、箸を止めた。
「……え?」
時計は、まもなく午後十時を指そうとしていた。




