3 にごぉ
スマイル0円
Oic Buvetteに入ると、最初に肉の焼ける匂いがした。
それから、揚げたてのポテトの匂い。温められたパンの香ばしい匂い。コーヒーの匂いもする。
少し甘い匂いが混じっていた。
シナモンだろうか。
ヴィルテは入口で足を止めた。
外では、相変わらず雪が降っている。
扉が閉まると、吹雪の音が遠くなった。
代わりに、人の話し声が聞こえてきた。
食器の触れ合う音。椅子を引く音。厨房から聞こえる、油の弾ける音。
それから、笑い声。
暖かかった。
「ふっふっふ、どうだい?」
「いい匂い」
「そうだろう?」
悟りヨハンナは満足そうに頷いた。
ヴィルテは店内を見渡した。
広い店だった。
しかし、妙なことに、店の雰囲気が途中から変わっていた。
向かって右側は、クラシックな内装だった。
濃い茶色の木目調の壁。落ち着いた色合いのテーブルと椅子。天井から吊るされた照明は、柔らかい琥珀色の光を落としている。
壁際には本棚があり、窓辺には観葉植物が置かれていた。
低い音量で音楽が流れている。
ピアノだろうか。
客たちは静かに食事をしていた。
一人で本を読んでいる女性がいる。
向かい合って座った男女が、コーヒーを飲みながら何かを話している。
窓際では、灰色のセーターを着た男性が、Rowenaをテーブルに置いて食事をしていた。
どの客も、なんとなく落ち着いて見える。
社会人だろうか。
一方、左側はまったく違っていた。
明るい照明。
白を基調とした壁に、赤や黄色の装飾。
テーブルも椅子も、左側よりずっと気軽な雰囲気だった。
壁には大きなメニューの写真が並んでいる。
ハンバーガー。
ポテト。
ナゲット。
それから、見たことのない大きなハンバーガー。
こちらは賑やかだった。
四人掛けのテーブルを囲んだ若者たちが笑っている。
制服らしい服を着た女の子たちが、ポテトをつまみながらRowenaの画面を覗き込んでいた。
別のテーブルでは、男の子が大きなハンバーガーを両手で持っている。
口に入るのだろうか。
ヴィルテは少し心配になった。
「……お店が二つあるんですか?」
「一つだよ」
「でも、全然雰囲気が違いますね」
「ふっふっふ、そうだねぇ」
悟りヨハンナは店内を見渡した。
「こっちはゆっくり食事を楽しみたい人向け。あっちは気軽に食事をしたい人向けさ」
「メニューは違うんですか?」
「同じだよ。お客さんが食べたい方の雰囲気の中で食べられるのさ」
「へー」
ヴィルテはもう一度、左右を見比べた。
右側は、なんとなく大人の空間だった。
左側は、なんとなく若者の空間だった。
もちろん、右側にも若い客はいるし、左側にも年配の客はいる。
ただ、全体としては、そんな印象だった。
「ハンバーガーにしよっかな」
「若いねぇ」
「ヨハンナさんだって十八歳くらいでしょ」
「ふっふっふ、アラサーさ」
「そうなんですか?」
「おっと、あまり掘り下げるものではないよ」
「気になる」
「忘れてないかい? きみはこれからわたしの奢りで食べるんだよ?」
「さーて、なに食べよっかなー」
ヴィルテはメニューを見上げた。
悟りヨハンナは笑った。
注文カウンターには、数組の客が並んでいた。
二人も列に加わった。
ヴィルテはメニューを眺める。
ハンバーガーの種類は多かった。
普通のハンバーガー。
チーズバーガー。
チキンバーガー。
魚のフライを挟んだものもある。
それから、ずいぶん大きなハンバーガー。
写真を見る限り、片手で持つのは難しそうだった。
サイドメニューも多い。
ポテト、ナゲット、サラダ、スープ。
デザートもある。
アップルパイが美味しそうだった。
ヴィルテは少し悩んだ。
奢ってもらえるとはいえ、あまり高いものを頼むのも気が引ける。
普通のハンバーガーでいいだろうか。
いや、せっかく来たのだから、少し大きいものを頼んでもいいかもしれない。
そんなことを考えているうちに、列が進んだ。
あと一組。
「お待たせしました」
前の客がカウンターに立った。
「テイクアウト」
「ご注文はお決まりですか?」
「スマイル0円」
ヴィルテは顔を上げた。
店員が固まった。
若い女性だった。
きちんと制服を着て、髪をまとめている。
先ほどまで、にこやかに接客していた。
しかし、今は違った。
「……」
店員は少しだけ口元を動かした。
そして、
「にごぉ」
笑った。
いや。
笑おうとした。
口角が不自然に持ち上がり、頬が引きつっている。
目は笑っていなかった。
ヴィルテは、その顔を見た。
前の客も見ていた。
「……」
客はしばらく店員を見つめていた。
そして、なにかに納得したように頷いた。
そのまま店を出ていった。
何も買わずに。
ヴィルテは客の背中を見送った。
何だったのだろう。
もう一度、店員を見た。
まだ少し引きつっていた。
目が合った。
ヴィルテは急いで目をそらした。
「お次のお客様どうぞ~」
店員は何事もなかったかのように言った。
ヴィルテと悟りヨハンナがカウンターに進んだ。
「ふっふっふ、なににするんだい?」
「あ、じゃあ、ハンバーガーのセットで」
「ふっふっふ、遠慮しなくていいんだよ?」
「……いいんですか?」
「もちろんさ」
ヴィルテはメニューを見上げた。
「えー、じゃー……」
少し考えた。
なにを考えたか。
どうすれば遠慮しているように見てもらえるかだ。
「じゃあ、このワールドワイドビッグビュヴェットバーガー、3Lサイズのセットで。サイドは、ポテトとナゲット。あと、どーしよっかなー、コーヒー……いや、コーラにしちゃお。ダイエットコーラで」ヴィルテは畳み掛けるように言った。途中で悟りヨハンナに止められないために。
ちら、と悟りヨハンナを見るが、悟りヨハンナはいつもと変わらない余裕たっぷりの自然な笑顔だった。「ふっふっふ、じゃあ、わたしも同じものにしようかな」
「では、セットおふたつでよろしいですか?」
「待ちなよ」
悟りヨハンナが言った。
「追加のご注文ですか?」
「この、スマイル0円をくれるかな?」
「……」
店員が固まった。
ヴィルテは悟りヨハンナを見た。
悟りヨハンナは、店員を見ていた。
店員は二人を見た。
そして、
「にごぉ」
笑った。
先ほどと同じだった。
口角が不自然に持ち上がり、頬が引きつっている。
悟りヨハンナは、その笑顔を無言で見つめた。
「……」
「……」
「……なるほどね」
なにかに納得したように頷いた。
ヴィルテは悟りヨハンナを見た。
何がわかったのだろう。
「ご注文は以上でよろしいですか〜?」
「ヴィルテちゃん、追加を頼むなら今だよ」
「えー、いいんですかぁ?」
「ふっふっふ、もちろんさ」
「じゃあ、ホットシナモンアップルパイもお願いしますっ」
「サラダもつけるかい?」
「もらいますっ」
「サラダとアップルパイも二つずつ」
「ありがとうございます」
にこっ、と。
店員が笑った。
今度は自然な笑顔だった。
ヴィルテは、その笑顔を見た。
普通に笑えるらしい。
だったら、さっきのは何だったのだろう。
「……あ、追加いいですか?」
ヴィルテは言った。
「はい、お伺いいたしますっ」
「スマイル0円」
店員の笑顔が固まった。
「いただけますか?」
「……」
「……」悟りヨハンナがヴィルテを見た。
「……」
「……」
「……ほう」隣で、悟りヨハンナが呟いた。
「……」ヴィルテは店員を見た。
「……」悟りヨハンナも店員を見ていた。
「……」店員はヴィルテを見ていた。
「……」
「……」
「……にごぉ」
「……」
ヴィルテは、その笑顔を見つめた。
やはり引きつっていた。
なるほど。
……。
なるほど?
何がなるほどなのだろう。
さっぱりわからなかった。
しかし、先ほどの客も、悟りヨハンナも、なにかに納得したように頷いていた。
だから、ヴィルテも頷いてみた。
「……なるほど」
店員がヴィルテを見た。
悟りヨハンナもヴィルテを見た。
「ふっふっふ」
悟りヨハンナは笑った。
ヴィルテは、もう一度頷いた。
何もわからなかった。




