第2話 束の間の平和を抱く②
百年に渡る戦争の中で、幾つかの大国と、数え切れぬほど多くの小国とが滅びていった。のちに『百年戦争』として歴史に刻まれることになるこの戦は、夥しい犠牲を伴いながらも、ともかくも終焉を迎えたのである。大国ドラカルト、ヘグロー共和国、メンテリアーノ宗主国……そして、アルレリア王国の王家が分裂して興ったマグノリア王国もまた、この百年戦争の渦に呑まれて消えていった国のひとつであった。
「マグノリア……」
突如としてこの男の元を訪ねてきた彼女は、自らを『サン・マグノリア』と名乗った。滅びたはずのマグノリア王国と、何か関わりのある者なのだろうか。あるいは、滅んだ国の名を、これも何かの縁として名乗っているだけなのかもしれない――そんな埒もない考えが、男の頭の中を巡っていく。
男が言葉に迷っていると、それを察したのか、サンの方から口を開いた。
「自己紹介が、まだ終わっていませんでしたね」
サンはそう言うと、居住まいを正した。
「わたくしはマグノリア王国、第三王女――サン・シーサ・マグノリアと申します。本当はもっと、ずっと長い名前があるのですけれど、今はこれだけで、十分でしょう」
そう言って、サンは実に堂に入った、良い教育を受けた者らしい優雅な一礼をしてみせた。無論、彼女が本当にマグノリア王国の王女であるという確証など、どこにもない。しかし、その一挙一動は、彼女の口にした身分を疑う余地もないほどに、雄弁に物語っていた。
「――と言っても、それも昔の話。今はもう、祖国そのものがありません。ですから今のわたくしは、ただの歴史家、『サン・マグノリア』。それだけの人間です」
祖国が滅びたとて、彼女がかつてマグノリア王家の血を引く王女であったという事実までが、消えてなくなるわけではない。れっきとした、貴い身分の女性なのだ。その気になれば、マグノリア王国を再興することすら、あながち夢物語とも言い切れないだろう。
そのような女性が、なぜ歴史家などという職に就き、こんな辺境の山中まで、自分ひとりを訪ねてきたのか。男には、その理由がまるで見当もつかなかった。
「そ、そうだったのかい……。しかし、なぜそんな御方が、わざわざこんな……」
歴史書を編むためにここまで来たのだ、ということは、すでに聞かされている。だが、それが目的であるならば、自分などよりもよほど相応しい証言者は、この世にいくらでもいるはずだ。それにも拘わらず、彼女はただ意味もなく戦だけをして生きてきた、この名もなき傭兵の話を聞こうとしている。なぜ彼女が、他ならぬ自分の元を訪れたのか――男自身にも、それがどうにも理解できずにいた。
「百年戦争の証言は……それなら、僕には荷が重すぎるよ。私はどこにでもいる、ただの傭兵にすぎない。『蛮勇』でもない」
かの時代を生き抜いた者たちの中でも、とりわけ鮮烈な功を挙げ、人々の記憶に強く名を刻んだ者たちは、『蛮勇』と呼び習わされている。
曰く『剣豪』、曰く『雷帝』、曰く『虎狼』、曰く『白夜』――云々。
男は、彼らのように歴史に名を残した者たちとは違う。むしろ憎まれこそすれ、誰に感謝されるでもなく、誰の記憶にも残ることのない、ただの傭兵に過ぎなかった。
「いいえ。あなたのことは、存じておりますよ」
自らを卑下する男に、サンは静かに、しかし確かな笑みを向けた。
「――オットーさん」
その名を呼ばれた瞬間、久方ぶりに、名を呼ばれたという実感が、胸の奥にじわりと広がった。あいつ、傭兵、そこの奴――これまで様々な呼び名で呼ばれてはきたが、こうして名前で呼ばれることなど、思えばずいぶんと久しくなかったことである。
「なぜ……私の名前を……」
「『名無しのオットー』。過去の戦の記録――ことに、戦功名簿を調べていく中で、あなたのお名前を見つけました」
戦功名簿とは、戦において大将首を挙げるなど、目覚ましい武勇を示した傭兵や兵士に対し、その功に報いるためにまとめられる文書のことであり、オットーはよく名を連ねていた。
「あなたのお名前は、そのいずれにも、幾度となく登場していました。『名無し』と呼ばれながら、ちゃんと『オットー』という名前をお持ちだったなんて――なんだか、少しおかしいですよね」
サンはそう言って、口元に手を添えると、いかにも育ちの良さそうな上品な仕草で、小さく笑った。
「百年戦争とは、戦の記録そのものです。市民や政治家の言葉も、無論大切でしょう。ですが何よりもまず、実際に戦に生きた傭兵や兵士――そして『蛮勇』と呼ばれた方々のお言葉こそが、後の世に残すべき、何より貴重な財産なのです」
オットーが数だけはこなしてきたのは、戦であった。それも、もはや自分でも覚えきれぬほどの数の戦だ。様々な国の旗の下で傭兵として雇われては、様々な戦地を渡り歩いてきた。
己より強い者と巡り合っては、時にこれを退け、時には敗れ、また時には勝利を収める。凍てつく寒冷の地でも、うだるような温暖の地でも、切り立つ山の中でも、深い森の奥でも――行く先がどこであろうと、ただ金のためだけに、剣を振るい続けてきたのである。
おそらくオットーは、この百年戦争を生き延びた者たちの中でも、誰よりも多くの戦場を、その身をもって知る男であったろう。だからこそ、サン・マグノリアは、はるばるこの山中まで、彼を訪ねてきたのだ。
彼女のまっすぐな、しかし紳士的な眼差しを向けられ、オットーはついに、その意志に折れることにした。
「……わかった。私のつまらない話でよければ、いくらでも聞いてくれ。あそこのベンチにでも、腰かけようか」
「はい……!」
サンは、年相応の明るい笑みを浮かべて、大きく頷いた。
◆
サンをベンチに座らせた後、オットーは一度家の中に入り、朝に淹れておいた茶の残りを持って、ベンチへと戻ってきた。
「沸かしてから、少し時間が経っているから生温いけれど、それでも十分に美味いはずだよ」
「親切に、ありがとうございます」
差し出されたコップを受け取ると、サンはまず、立ち上る香りに小さく目を細めた。ほのかに甘く、それでいてどこか青々とした、爽やかな香りがふわりと鼻先をくすぐる。コップの中の茶は澄んだ琥珀色をしていて、傾けるたびに、朝の光を淡く映し込んでいた。
「……とても美味しいですね」
心温まるような、優しい味わいに、サンがほっと一息をついた。その様子を微笑ましく眺めながら、オットーが軽く説明する。
「裏庭の畑で採れる、マガダの葉と実を使っている。あまり見かけない品種だから、珍しいかもしれないね」
「はい……初めて飲みました……」
両手でコップを支えながら、サンがゆっくりと周囲を見渡した。豊かな緑に包まれ、鬱蒼と生い茂るこの森の中に、これほど開けた広場が、はじめから偶然あったとは考えにくい。地面のあちこちに残る切り株を見る限り、どうやらこの場所は、目の前の男が、自らの手で切り開いたものらしかった。
「この家も、このベンチも、全部あなたが?」
「一応……こんなガタガタだけどね」
「すごいですね。こんな……どれほどの時間がかかったことか……」
「いや、人と会うのが嫌だっただけさ。皆、戦争のことを必死に忘れて、前へ進もうとしている。そこに、私は馴染めなかった。だからこうして、逃げるように、山の中で一人生きているだけさ」
平和な時代から逃げてきたことを、幾分か悔いるようでいて、それでいてどこか納得したような声色で、オットーが呟く。すると、サンが静かに口を挟んだ。
「オットーさんが思っているほど、世界はまだ、平和になってはいませんよ」
「どうしてだい? もう、戦争の噂は聞かないけれど」
オットーは、人と関わらぬ暮らしをしているせいで、世情にはとんと疎い。新聞も手紙も、外からの情報が入ってくることはなく、一月に一度しか顔を合わせない行商人との、わずかな立ち話だけが、彼にとっての唯一の情報源であった。
その乏しい情報の中でも、行商人は「世界は平和になった」と語っていた。国から国へと、物が運びやすくなったのだとも。
暗い話題こそ絶えないが、この二年で、世界は確かに、平和に近づいているはずだ。
しかし、とサンは静かに続けた。
「戦争が終わって、まだたったの二年です。百年も続いた戦争の傷が、それだけで癒えるはずがありません。……それでも、皆が前を向いて進もうとしている、というのは、確かにそうかもしれませんね」
それはそうか、とオットーは納得した。百年もの間、戦争が続いていたのだ。戦こそが日常であり、今を生きる人々の誰ひとりとして、平和というものを知らない。それはオットー自身も、例外ではなかった。そんな中で、皆が手探りをしながら、それぞれの思い描く『理想の平和』を、今まさに追い求めているのだろう。
あの日、戦争が終わった直後に、町で目にした祝宴の光景は、きっと永遠には続かない。世界が『戦争』から『平和』へと、何の滞りもなく、すぐさま移り変わることなど、できるはずがないのだ。百年という歳月の中で積もりに積もった歪みは、いたるところに残っているに違いない。民族の間の遺恨、いまだ定まらぬ領土の問題――それらを解きほぐしていくには、あるいは、これから何十年、何百年という時間を要するのかもしれない。しかし、この百年の痛みを身をもって知る者たちこそが、きっと、世界を前へと進ませていくのだろう。
その先に、自分の居場所はない。
戦を知る世代から、戦を知らぬ世代へ。平和を知らぬ世代から、平和を知る世代へ。
移り変わっていくその場所に、功と罪とにまみれた一介の傭兵の存在は、ふさわしくない。
あの日、あの時に下した決断は、間違ってはいなかったのだと、オットーはあらためて、そう確信した。
「そうか……。でも、君のような人がいるのなら、きっと人々は、『百年戦争』の傷を乗り越えて――先へ進んでいけるだろうね」
『百年戦争』を忘れ去ることなく、かといって都合よく脚色するのでもなく、ただありのままの真実を伝えようとする、彼女のような存在があってこそ、その記憶は正しく後の世へと語り継がれていくのだろう。その一助に、たとえ微力であってもなれるというのなら、意味もなく戦だけをして生きてきた自分の人生にも、多少なりとも意味が生まれるというものだ。
ただ、話を聞かせる前に、ひとつだけ、確かめておきたいことがあった。
「聞いてもいいか。なぜ、『百年戦争』についてまとめようと思ったんだ」
『百年戦争』の歴史書を編もうと思い立ったきっかけは、決して漠然としたものではないはずだ。確かな目的があり、譲れない使命があってこそ、こうして人里離れたこの山奥まで、彼女は足を運んできたのだろう。そうでなければ、わざわざこんな場所まで、来るはずがない。
オットーがそう尋ねると、サンは一呼吸置いてから、ゆっくりと口を開いた。
「今、世に出回っているのは、誇張と嘘にまみれた歴史書ばかりです。私は――『あの人たち』が遺してくれたものを、脚色などせず、ありのままに、後の世へと伝えたい。そう思って、この歴史書づくりを始めました」
彼女は、戦争によって、祖国そのものを喪っている。戦争というものに対する彼女の思いは、きっと、オットーが考える以上に重く、切実なものなのだろう。この歴史書づくりは、彼女自身が戦争と向き合うための、そして『あの人たち』の存在を、誰にも忘れさせないための、ひとつの物語なのかもしれない。
「私は、マグノリアが滅びるあの時、ある方に助けていただきました。今では『魔法使い』と呼ばれているかもしれない、そのお方に――燃え盛る王宮から、命を救い出していただいたのです」
『魔法使い』もまた、今の時代に名を遺す蛮勇のひとりである。
「その『魔法使い』は、『百年戦争』が始まったその発端に深く関わっているのです」
サンは、そこで一度言葉を切り、静かに続けた。
「私は幼い頃、命を助けていただいたご縁で、『魔法使い』様から、直接いろいろなお話を伺う機会に恵まれました。悲しい物語も、楽しい物語も、決して綺麗事ばかりではない、人間くさい物語も。……だからこそ、彼らが遺したもの、彼らが積み重ねてきた努力を、正しい形で、後の世に残したい。そう考えるようになって、歴史書を編むことを決めたのです」
思えば、子供の頃に助けてもらった『魔法使い』から聞かされた物語は、そのどれもが、悲しくて、楽しくて、そして時にひどく醜いものであった。今、世に出回っている歴史書の多くは、そうした蛮勇たちを、都合よく神格化し、脚色してしまっている。だが、虚実の入り混じった歴史書に、歴史書としての価値などない。
サンには、『魔法使い』から聞いた『勇者パーティ』の物語も含め、良いところも悪いところも、時に目を背けたくなるような醜さも、その一切を脚色することなく、ありのままに伝えたいという、確かな願いがあった。
「そんなことが……」
サンが歴史書づくりを志した理由は、オットーが漠然と想像していたものとは、大きくかけ離れており、そして、その想像を、はるかに上回るものであった。
「私がその助けになれるというのなら……なんと光栄なことか」
一端の傭兵でしかなかった自分が、これまで生きて来た日々を肯定されるとは、眉唾にも思いはしなかった。意地汚いだけの、面白味のない男の物語が、意味を持つとは思わなかった。
「ただ……どこから話せばいいものか……」
オットーの人生は世に語られる『蛮勇』ほど波乱万丈ではない。愛する者を亡くしたことも、友人と殺し合ったことも、何一つとしてない。ただひたすらに剣を振るって人を殺して来た、それだけしか男の人生にはなかった。だからこそ、人生を話せと言われても、どうすればいいのか分からない。
オットーが頭を悩ませていると、隣で一冊の本を取り出して中を見るサンの姿が目に入った。
「それは……?」
「私がこの旅の中で色々な方から集めたお話をまとめているものです。まだ、とても少ないですけれど」
サンは、その本をぱたりと閉じると、表紙をひっくり返すようにしてオットーに向け、指先で軽くページを弾いた。パラパラ、パラパラと乾いた音を立てて紙がめくれていく。
最初の数ページにこそ、几帳面な、しかし所々に走り書きの跡が残る文字がびっしりと書き込まれていたが、それを過ぎると、あとはどこまでめくっても真っ白なままだった
「ですから、難しく考えていただく必要はありません。覚えていることを、覚えている順に、思いつくままにお話しいただくだけで、十分なのです」
サンはそう言うと、膝の上に本を広げ、懐から取り出した一本の羽根ペンを構えた。
「たとえば――一番古い記憶からでも構いませんし、一番忘れられない戦のことからでも構いません。オットーさんの中に、今も残っているものであれば、それがどんな小さな話であっても」
促されるまま、オットーはしばし、視線を宙に彷徨わせた。
思い返してみれば、覚えていることは、山のようにある。だが、その大半は、似たような戦場の、似たような光景の繰り返しに過ぎない。誰それの旗の下で、どこそこの丘を奪い合った――そういった記憶が、幾重にも積み重なっているだけだ。
そんな中で、ふと、脳裏の奥にひとつの光景が浮かび上がった。
もっとも古い記憶――まだ何も知らなかった、ほんの子供の頃の記憶である。
オットーは、コップに残っていた冷めた茶を一口含むと、小さく息を吐いた。
「そうだな……。じゃあ、一番最初の話からしようか」
サンが、ペン先をそっと紙の上に落とす。
丘の向こうに広がる青い空を、しばらく眺めていたオットーは、遠い記憶をひとつずつ手繰り寄せるようにゆっくりと目を細めると、やがて静かに、口を開いた。
「私が、初めて『戦争』というものに触れた時のことだ……」




