第1話 束の間の平和を抱く①
長きにわたる戦が、終わった。
そう、終わったのである。
つい先刻まで喊声と剣戟がひしめき合っていたこの丘は、今や本来の静けさを取り戻しつつあった。もっとも、その静けさは平穏とは似て非なるものだ。一人を除くすべての兵士は、すでに物言わぬ屍と化し、幾重にも積み重なって丘の斜面を覆っている。
死者たちの流した血は幾筋もの川となって地を這い、凹んだ鎧の中に溜まっては、鈍い臭気を放っていた。血を吸った土は赤黒く変色し、踏めばぬかるむほどに湿っている。へし折れた旗竿と槍の穂先が、あちこちの地面に突き立ち、そのいくつかには、まだ乾ききらぬ臓物の一部がこびりついたままであった。
黒い羽の鳥どもが、死体の上で甲高く鳴きながら、力なく舞い降りては屍をついばみ、また億劫そうに舞い上がることを幾度となく繰り返している。魔術によって呼び出されていた獣たちの姿は、すでにどこにもない。使役していた術者が死んだためか、あるいは討たれたためか――いずれにせよ、この世ならざるものたちは、主を失った途端に、幻のごとく掻き消えていた。
その丘の頂に、一人の男が座り込んでいた。
年の頃は、四十をいくつか越えたあたりであろうか。無精髭が顎から頰にかけて濃く伸び、鎧の継ぎ目という継ぎ目には、赤黒く乾いた血がこびりついている。
傭兵であった。
何十という戦場を渡り歩き、何十という旗の下で剣を振るってきた男である。旗の色も、その旗が掲げていた大義名分も、彼はもうほとんど覚えていない。覚えているのは、絶え間ない飢えと、骨身にしみる寒さと、そして時折訪れる、束の間の温かい食事の記憶――それだけだ。
遠くの町から、鐘の音が響いてきたのは、そのときであった。
一度、二度、三度――。
それは、戦の始まりを告げる警鐘とは、明らかに違う響きであった。急き立てるような、切迫した音ではない。むしろゆったりと、長い眠りから覚めた老人が大きく伸びをするような、間延びした荘重さをたたえている。
男は、剣の柄にもたれかかったまま、しばらくその音に耳を澄ませた。
終戦の鐘だ。
「終わった……」
呟きは、乾いた喉からかすれて漏れた。
男が生まれるよりも、さらにその前から、この戦争は続いていた。数多の国家を巻き込み、幾つもの種族を戦火に投じ、大陸のほとんどを焼き尽くしたこの戦争の終わりにしては、いささか呆気ないほど静かな幕切れであったかもしれない。少なくとも、この丘の上においては。
今を生きるほとんどの者は、この戦争と共に生まれ、この戦争と共に老いていった。物心つく前から戦を知り、戦のない世界を、誰ひとりとして知らない。
ある者は愛する人を喪い、ある者は師の胸に自らの剣を突き立てて殺した。愛する我が子を大火にくべた者もいれば、愛しい妹を戦場に置き去りにして、なお生き永らえた者もいる。凌辱、惨殺、生贄、魔女狩り――ありとあらゆる非道が、この百年のうちに、幾度となく繰り返されてきたのだ。
男とて、その例外ではない。
故郷は敵国の侵攻によって焼け落ち、灰燼に帰した。物心つく頃には、すでに手にしていたのは鍬ではなく剣であり、子供時代のすべてを、傭兵として戦場で過ごした。仲良くしてくれた戦争孤児も、口先だけで彼を騙そうとした大人も、その体目当てに近寄ってきた物好きな輩も――出会った者は、ことごとく死んでいった。臓物を晒す者、頭部を刎ねられる者、凌辱された挙句に事切れる者、あるいは魔術によって永劫とも思える苦しみを味わわされる者。死に方こそ千差万別であったが、皆が等しく死んでいったことだけは、何ひとつ変わらなかった。
子供から、青年と呼べる年頃になっても。そして、大人と呼ばれる歳月を重ねても。男のすることは、何ひとつ変わらなかった。信義もなく、忠義もなく、誰の旗の下にあるのかさえろくに知らぬまま、ただ金のために剣を振るう。それだけを繰り返して、何十年という歳月を生きてきたのだ。
戦以外の生き方を、男は知らない。
この大火に包まれ続けてきた大陸が、これからどのような未来を歩んでいくのか、男には見当もつかない。だが、おそらく、彼のような者は少なくないはずだった。戦しか知らぬ者たちが、山野に潜んで盗賊となるのか、それとも身分卑しき警備の役目として、どこぞの貴族に飼われることになるのか――それは、まだ誰にも分からない。無論、男自身、この先自分がどのような道をたどるのか、皆目見当がつかなかった。
「帰ろう」
その一言が、これほどまでに実体を欠いた響きを持つとは、彼自身、思ってもみなかったことである。帰るべき家など、とうの昔に戦火に焼かれ、跡形もなく消えている。帰りを待つ妻や子がいたかどうかさえ、その記憶は朧げで、はっきりとは思い出せない。
それでも、『帰ろう』という言葉は、ひとりでに口をついて出た。おそらくそれは、どこか具体的な土地を指し示す言葉ではなく、ただ、剣を握らずに眠れる場所を求める、漠然とした――しかし、抗いようのない――希求であったのだろう。
男は、ゆっくりと立ち上がった。膝が軋み、古傷のひとつが、まるで長らく忘れられていたことを恨むかのように、鈍く疼いた。彼は剣を鞘に収めようとして、その鞘そのものが、すでに戦場のどこかで失われてしまっていることに気がつく。男は小さく苦笑を漏らすと、代わりにその切っ先を、目の前の地面へと突き立てた。
柄頭に手をかけたまま、しばし、丘の向こうへと沈みかけていく太陽を眺める。
百年にわたって続いたこの戦争は、こうして、一人の名もなき傭兵のかすれた呟きと共に、その最後の一頁を閉じようとしていた。おそらく後世の史家は、この日、いずこかの都市において講和の儀式が執り行われ、いずれの国のいずれの将が、いかなる条件のもとに署名をしたか――その事実のみを、簡潔に書き記すことであろう。
屍の丘の上で、ただ一人、終戦の鐘の音に耳を澄ませていたこの男の存在は、おそらく、いかなる記録にも残ることはない。
それでいい、と男は思った。少なくとも、この丘の上においては、彼だけが――その耳と、骨の髄まで染み渡った疲労とをもって――戦争が本当に終わったのだということを、確かに知っていたのだから。
男は、丘を下り始めた。屍を踏まぬよう、一歩一歩、慎重に足を運びながら。
その背に、鐘の音は今もなお、間遠く、しかし絶えることなく、鳴り続けていた。
◆
それから二年の歳月が流れた。
かつて幾多の戦場でその名を知られた傭兵であった男も、いまやこの山中でその名を知る者は、ただの一人としていない。彼は国境の彼方、人里から幾日も歩いて辿り着くほどの山の中腹に、自らの手で小屋を建て、猫の額ほどの畑を切り拓いて、そこに静かに根を下ろしていた。
「よく育っているな」
自宅の裏手に耕した畑を、朝一番に検分するのが、男の日課であった。照りつける太陽の下で、すくすくと育っていく果物や野菜の様子を眺めるのは、存外に楽しいものだ。よく熟れた野菜があれば、一つ手に取り、その表面を伝い落ちる朝露を目で追いながら、そのまま齧りつく。
「うまいな……」
二年前の自分が、こうして山中で土に触れ、野菜を育て、獣を狩って生きていく日々を送っていようとは、夢にも思わなかったことだ。あの頃はただ漠然と、どこぞの町に居を構え、そこで余生を送るのだろうとばかり考えていた。傭兵として稼いだ金は、生来の堅実な気質も手伝って、それなりの額が貯め込まれている。町で悠々自適に暮らそうと思えば、暮らせぬこともなかったであろう。だが、いざその段になると、男はどうしてもその気になれなかったのである。
二年前、戦争が終わったあの日から、世界は少しずつ、しかし確実に、色を変えていった。非日常――いや、男にとっては、戦こそが日常であったのだから、正しくは、その『戦という日常』から、『平和という名の非日常』へと、世界そのものが移り変わっていく、そういう時期であったのだろう。
かつて硝煙と怒号に満ちていた町々では、代わって祝宴が開かれるようになった。人々は輪になって踊り、酒を酌み交わし、降り注ぐように舞う花弁の下で、終わったばかりの戦争ではなく、これから始まる平和を寿いだ。広場の片隅では、吟遊詩人が竪琴をかき鳴らし、朗々とした声で詩を歌い上げる。歌われるのは、戦に散った英雄たちの武勇でも、非業の死を遂げた者たちへの鎮魂でもない。多くは、これから訪れるであろう穏やかな明日と、生き残った者たちへの寿ぎであった。人々は、悲しみよりも先に、生きて迎えたこの朝を喜ぼうとしていたのだ。
そうした、幸福に満ちた場所に、男は溶け込むことができなかった。
いや――溶け込もうと、そもそも思わなかったのだろう。
男はこれまで、何百、あるいは何千という人間を、その手にかけてきた。殺した者たちの怨嗟の声が、夢枕に立つことはない。心を病んで、夜な夜な魘されるようなこともない。しかしそれは、罪の意識を微塵も感じていない、ということとは違う。血に汚れたこの両手で、功と罪とがない交ぜになったこの体で、果たして平和を寿ぐこの場所にいてよいものかどうか――男は、そう自問せずにはいられなかったのだ。
大義もなく、忠義もなく、ただ金のためだけに人を殺め続けてきた自分は、詰まるところ、この戦争という災禍を助長する一端を、確かに担っていたのではないか。傭兵としてしか稼ぐ術がなかった、傭兵としてしか生きられなかった――そうした言い訳は、もはや何の意味もなさない。他ならぬ自分自身が、自分を許せずにいるのだから。どれほど屁理屈をこねくり回そうと、平和を願うあの場所に、自分はいてはならないと感じてしまった。その時点で、男はすでに悟っていたのだろう。戦から平和へと移り変わっていくこの世界に、戦にこそ心を置き去りにしてきた自分の居場所など、どこにもないのだと。
それからの男は、人との関わりを絶ち、こうして遠く離れたこの地で、ひっそりと暮らしている。
野菜を育て、木々になる果実を摘み、山野を駆ける獣を狩り、近くの小川で水を汲み、時には魚を獲る。慎ましくはあるが、日々の暮らしはそれなりに充実していた。世界が戦争を忘れ、必死に平和な世へと移り変わろうとしているその流れから、男はあえて距離を置いている。戦にこそ心を置いてきた自分が、その流れの外にこうしている――そのことに、男は奇妙な納得を覚えていた。
人と顔を合わせるのは、この山を越えていく行商人と取り引きをする時だけだ。それ以外は、ただ一人。
あるいは自分は、この世界に置き去りにされているのかもしれない。そう思わないでもなかったが、不思議と焦りのようなものはなかった。戦を忘れられぬ傭兵の行き着く先としては、これもまた、相応しい終着点であるように思われたのである。
「さて、今日も頑張りますか」
自給自足というのは、思いのほかやるべきことが多い。まず取り掛からねばならないのは、昨日仕留めた獣の毛皮の下処理である。それが済めば、燻製にするための肉の仕込み、薪割り、崩れかけた柵の補修、弓の弦の張り直しと、やることは尽きることがない。
朝は早くに起き、夜は早くに眠る。ただそれだけの日々が、今日もまた始まろうとしていた。
男がそう思いながら大きく背伸びをしたとき、少し離れたところで、茂みを踏みしめる音がした。
行商人が山を越えてくるのは、まだ一週間ほど先のことだ。それに、あの行商人が道を外れ、これほど山深いこの場所まで足を踏み入れることなど、これまで一度もなかった。かといって、獣の足音とも違う。
これは、人の足音だ。
何事かと、音のする方向へと目を向けていると、茂みを掻き分けて、一人の女性が姿を現した。金髪とも銀髪ともつかぬ、その中間のような色合いの髪をした、旅装の女であった。歳の頃は、二十前後といったところであろうか。服の下に何かしらの得物を忍ばせているようだが、それを引き抜こうという気配は微塵もない。敵意らしきものは感じられず、ただ生い茂る草木を掻き分けることだけに、必死になっている様子であった。
男は、いつの間にか懐の剣にそっと添えていた手を離し、女に近づいた。
「このような場所まで、いったい何用でしょうか」
山に迷い込んで、たまたま男の元に辿り着くなど、まずあり得ることではない。まして、時刻はまだ早朝である。迷うにしては早すぎるし、仮に昨日からこの山中を彷徨っていたのだとすれば、この女の身なりは、あまりにやつれが見られなさすぎた。
女は男の声を耳にすると、最後の茂みを掻き分けて姿を現し、まっすぐに男の顔を見つめた。そうして、ぱっと表情を明るくさせる。
「――ようやく、お会いできました。あなたを、ずっと探していたのです」
女は一息にそう言うと、居住まいを正すように小さく一礼し、続けた。
「私はサン・マグノリア。百年戦争を生き抜かれた方々のお言葉を集め、後の世に伝えるための歴史書を編もうとしている者です」




