第9話 辞令を、お返し申し上げます
白い大聖堂の、奥の扉の前で、私は深く、息を吸った。
吸って、吐いた。
もう一度、吸った。
私は、礼装を、着ていなかった。戴冠式のために仕立てられる刺繍も、銀糸の縫い取りも、身に付けていなかった。着ていたのは、ヴェルガル村から王都に至るまで、一晩馬車に揺られた、その旅装のままだった。
裾に、街道の乾いた土埃が、うっすら残っていた。
それでいい、と思った。
私がこの日、持ってきたものは、身なりではなかった。
手の中の、一枚の紙だった。
扉の向こうから、戴冠式の第二鐘が響いた。
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扉が、開いた。
大聖堂の中央通路に、朝の光が、白い石の床を、縦に貫いていた。
祭壇の方へ、その光が、細長く伸びている。
列席者の頭が、一斉に振り返った。
壇上では、白と銀の法衣を纏ったクラリスさんが、祭壇の階段に、片足を掛けようとした、その姿のまま、止まっていた。
ハインケル長官閣下は、司会の台の上で、にこやかな微笑みを、貼り付けたままで、やはり、止まっていた。
私は、中央通路を、まっすぐに歩いた。
足音は、思っていたよりも、響いた。
響かせていいのだ、と、自分に言い聞かせた。
国王陛下の御前で、私は、膝をついた。
「陛下」
声は、きちんと出た。
「四代目悪役令嬢、ロティス・フォン・エヴァガルド。辞令を──お返し申し上げます」
手の中の紙を、両手で、陛下の前に、差し上げた。
王直筆の、辞令だった。
五年前、まだ羽根ペンのインクが乾ききらなかった頃の、あの紙だった。
大聖堂が、しんと静まった。
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その静寂を、最初に裂いたのは、司会台からの、ほとんど叫びに近い声だった。
「ふ──不法侵入だ! 衛兵を呼べ、この者を──」
「待て」
王弟エドムント殿下が、立ち上がった。
「ロティス嬢の発言を、王命により、許可する」
殿下の手の中には、一冊の帳面と、一通の書状があった。帳面は、かつてアルドニアの大使殿がマルタばあちゃんの家で開いたものの、写し。書状は、あの夜、王弟家の指揮官の胸元に収められた、自筆の指示書だった。
殿下が、それを、王の御前の長机の上に、静かに、置いた。
続いて、アルドニア共和国大使殿が、自身の机から、封印入りの記録を、それに並べた。
──整ってしまった。
私は、膝をついたまま、順に、声を上げていった。
「神殿庁内部規定第四十七条に則り、辞職の書面は既に受理されております。私の退役は、規定上、完結した事実でございます」
「在任期間中、私へ宛てて届けられた家族の書状は、すべて開封と改竄を経ておりました。長官閣下のお部屋で。五年間、欠かさず」
大聖堂の中央通路の脇で、誰かが、息を呑む音がした。
「私を、任期満了後も縛り付ける目的で、任期延長の書面が、事前に準備されておりました。私の署名を、形式として頂戴する段取りで」
司会台の上の、あの微笑みが、ようやく、ほどけ始めた。
ほどけた微笑の奥から、五年間、一度も見せなかった表情が、薄く、滲み出した。
「そして──」
私は、王弟殿下の置かれた書状を、視線で、示した。
「私と、そして次代を担われるはずだったクラリス・フォン・グランツ嬢の、御命を、討伐の場において、実際に奪う手筈が、整えられておりました。差出人は、神殿庁長官、ハインケル・フォン・グランツ閣下」
クラリスさんが、祭壇の階段から、ゆっくりと降りた。
法衣の裾を、片手で軽く持って、祭壇の下で、深く、礼をした。
「伯父様」
姪の声は、震えていた。
震えていても、きちんと、通った。
「防御魔法の順序を、一つ、ずらせ、と──確かに、私に、お命じになりました。『本物の聖女物語を、完成させる』、とも」
司会台の上の、笑みの欠片が、完全に落ちた。
「違う。違う。この娘は錯乱している──」
「長官閣下」
今度は、アーセル殿だった。
中央通路の脇に、剣を下げたまま、立っていた。
静かな声だった。
「あなたの、今の言葉に──真実は、ひとつも、ありません」
大聖堂の、列席の貴族の一人が、ゆっくりと、目を閉じた。別の一人は、隣の連れに、何かを短く、囁いた。
空気が、一気に、変わった。
アルドニア共和国大使殿が、立ち上がり、短く、一礼した。
「聖女物語の運営上の手口は、我が国が五十年前、内部告発によって解体したものと、同一の構造であります。これは、我が共和国の公式見解として、本日の議事録に残すことを、願い出ます」
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「──これは、反逆だ!」
司会台の上の、声が、はじめて、ただの人間の声になった。
取り繕いも、威厳も、もう、そこには、乗っていなかった。
国王陛下の、低い声が、その上にかぶさった。
「ハインケル・フォン・グランツ」
大聖堂が、もう一度、静まった。
「汝の、聖職を、剥奪する」
それから、陛下は、ほんの短く、間を置かれた。
「横領、殺害教唆、国家への虚偽奉公。終身、神殿領の修道院にて、祈りに服させる」
司会台の、男の、膝が、抜けた。衛兵に両脇を支えられて、台を降ろされていった。
続けて、陛下のお声は、階下の一角へ向かった。
「聖女フィオナ・カザリエ。汝の、聖女資格を、剥奪する。以後、神殿庁の記録室において、一介の写経役として、勤めよ」
フィオナの白い法衣が、小さく、震えていた。
彼女は、何も、言わなかった。
言える言葉を、もう、持ってはいなかったのだと、私は、思った。
陛下は、最後に、王杖を、軽く、玉座の脇に立て掛けられた。
それから、はっきりとした声で、宣言された。
「悪役令嬢職は、本日をもって、廃する」
大聖堂の鐘が、鳴り始めた。
戴冠式のための鐘だった。戴冠する相手は、祭壇には、もう、いなかった。
それでも、鐘は、鳴っていた。
たぶん、別のなにかの、始まりのために。
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鐘の音が、まだ、天井に、残っていた。
中央通路を、一人の青年が、歩いてきた。
腰の剣は、下げていなかった。
手に、なにも、持っていなかった。
私の前で、アーセル殿は、立ち止まった。
それから、ゆっくりと、片膝をついた。
戴冠式の、白い床石の上で、旅装の青年が、旅装の私に、向かい合っていた。
「ロティス・フォン・エヴァガルド」
彼は、五年間、何百回と私を「悪役令嬢様」と呼んだ人たちの真ん中で、私の、本当の名前を、呼んだ。
「俺の、妻に、なってください」
大聖堂の、どこかで、誰かが、小さく、息を漏らした。
私は、何か、気の利いたことを、言うつもりだった。
いままで五年、言葉は、ずいぶん、練習してきたから。
けれど、喉から、出たのは、練習していない声だった。
「……はい」
訛った。
訛ったまま、続けた。
「よろこんで」
大聖堂の床が、一瞬、揺れたように、感じた。
揺れたのではなかった。
拍手の音が、四方の壁から、立ち上がってきたのだった。




