第10話 半年後の、ある朝のこと
結婚式の朝、私は、蜂蜜を採っていた。
花嫁が朝から働いている、というのは、聞いた人によっては、笑うかもしれない。けれど、これは、私が、自分で選んだ、今日の、始まり方だった。
春の空気の底に、土と草の匂いが、しっかり、混ざっていた。
巣箱の蓋を外すと、先月よりも、少しだけ重い巣板が、三枚、並んでいた。
アーセル殿──いまは、アーセルさん、と呼ぶ練習をしているところだった──が作ってくれた、あの銀のナイフを、私は、あいかわらず使っていた。柄の花の彫りは、最初のときより、少し、手に馴染んでいた。
巣板を一枚だけ、慎重に、切り分けた。
残りは、また来月の分だ。
朝露で濡れた膝元を、手の甲で払って、私は、小屋の方へ戻った。
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小屋の扉のところに、アーセルさんが立っていた。
鍛冶場から戻ったばかりらしく、前掛けの胸のあたりに、黒い粉が、少しだけ、付いていた。右手に、小さな革の小袋を握っている。
「……これ」
前掛けの端で、手を軽く拭ってから、彼は、袋の口を開けた。
中には、銀の、細い輪が、ふたつ、並んでいた。
「最後の、ひとつ」
小さく、彼は笑った。
「このあいだ、作ってた」
私の指に、彼が、そっとひとつを、通した。
彼の指に、私が、もうひとつを、通した。
通すのに、少し、時間がかかった。彼の指の節が、私の知っている節より、ほんの少し、太かったからだった。
私の目の奥が、また、熱くなった。
最近、目の奥が熱くなる日が、少しずつ、増えている。
悪いことではない、と、たぶん、思っていた。
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村の広場には、春の花が、ひとつ、大きな輪になって敷き詰められていた。
マルタばあちゃんが、孫たちと、明け方から編んでくれたらしい花輪だった。リアが、少し背伸びをしながら、その輪の中央に、水を張った盥を置いていた。盥の中には、白い花弁が、円を描くように、回っていた。
アーセルさんの父さんは、黒い式服がきつそうで、時々、首元を指で引っ張っていた。妹さんたちは、私のドレスの裾を、ひとり一辺ずつ、両側から持ってくれた。ちいさな子どもの手のひらの温度が、裾の生地を通して、私の足のあたりまで、伝わってきた。
神殿も、聖堂も、司祭も、無かった。
村の老人が、古い言葉で、短い祝詞を、それらしく読み上げた。私たちは、顔を見合わせて、笑った。笑った、というより、少し、泣いた方に近かった気がする。どちらでもよかった。
指輪の位置を、アーセルさんが、もう一度、直してくれた。
直す必要は、あまり、無かった。
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昼過ぎ、村の郵便屋が、大きな麻袋を抱えてやってきた。
今月も、王都からの分の厚さが、半端ではなかった。小屋の卓の上に、私は封書を並べた。
> 神殿庁改革委員会より。神事に関わる労働基準の制定について、ロティス様のご助言を、ぜひ──
返事の便箋に、私はひとこと、書いた。
> お役に立てず申し訳ございません。蜂蜜の追加注文は、受け付けております。
次の封書。
> 王弟殿下より。先月分の蜂蜜、つつがなく頂戴した。陛下の御書房にも、同じものを献上申し上げたところ、大変お気に召された御様子である。来月、追加の注文を──
殿下らしい、すこし、角ばった字だった。
近頃は、殿下が私的に庇護なさる修道会の話を、手紙の隅に、短く、書いてこられることがあった。──かつて神殿庁の中枢にあった、ある高齢の修道者が、毎朝の祈りを欠かさず、心の健やかさを、少しずつ、取り戻しつつあるらしい、と。名は、書かれていなかった。
私は、便箋に、礼の言葉と、蜂蜜の出荷予定を、丁寧に書いた。
次の封書。
> クラリスより。東の港町に、小さな本屋を開きました。店の名は、祖母の旧姓から取りました。先月、善良な穀物商人と、婚約いたしました。王都に戻るつもりは、もう、ありません。──先日、町の写経房で、古い写本を書き直しにきた、白い法衣の女性を、見かけました。お元気そうでした。古い物語を、とても、真剣な顔で写しておられました。
私は、ふっと、笑ってしまった。
笑って、少し、胸の底のあたりが、あたたかく、しびれた。
便箋に、「本屋の開店祝いに、新作の蜂蜜の瓶を、少しだけ、お送りします」と、書いた。
次の封書。
> アルドニア共和国大使館より。両国友好の証として、今年の蜂蜜年間契約を、昨年に続き、更新いたしたく──
便箋に、「喜んで承ります」と書いた。
封書の山の、一番下に、神殿庁改革委員会から、もう一通、別の封書があった。
差出人の役職欄に、見慣れぬ文字が、印字されていた。
──「元聖女制度 記録整理担当」。
私は、開かずに、卓の端へ、そっと、寄せた。
読むかどうかは、明日、決めることにした。
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夕刻、畑の畝の端に、私とアーセルさんは、並んで座った。
空は、ゆっくりと、金色に、傾いていた。
風は、柔らかかった。
巣箱の前では、最後の蜜蜂が、今日の仕事を、のろのろと、片付けていた。
「なあ、ロティス」
彼は、膝の上で、指を組んでいた。
「君は、これで、よかった?」
少し、迷っていた声だった。
迷ったまま、そう訊いてくれる人だった。
私は、空を見ていた。
見ながら、口の中で、答えを、一度、組み直した。
「──私は、今日も、誰の物語にも、登場していません」
ゆっくり、言葉にした。
「それで、十分です」
彼は、少しだけ、瞬きをした。
それから、ほんの小さく、首を傾けて、笑った。
「いや」
低い声で、彼は言った。
「俺の物語には、ずっと、登場してるよ」
夕陽が、彼の頬に、斜めに、差していた。
差し方が、不器用だった。
不器用な差し方のまま、私は、その顔を、しばらく、見ていた。
見ていていい顔だった。
もう、隠さなくていい顔だった。
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巣箱の前の、最後の蜜蜂が、巣の中へ、ふっと、消えた。
畑の畝に、長い影が、二つ並んで、落ちていた。
片方の影が、もう片方に、ほんの少しだけ、寄った。
寄った方の影の指が、もう片方の影の指を、そっと、探した。
見つけて、握った。
握り返す方には、もう、間が、いらなかった。
風が、一度だけ、畑の上を、撫でるように、渡った。
渡っていった風の後ろを、薄い春の匂いが、追いかけていった。
王都の鐘の音は、ここまでは、届かなかった。
届かなくていい、と、私は、思った。
──今日は、蜂蜜の、とてもよく採れた日だ。
それだけ、覚えておけば、たぶん、十分だった。




