第8話 私、伯父様に殺される予定だったんです
神殿庁長官室の、朝の光は、いつも通り、真っ直ぐに差し込んでいた。
机の向かい側には、白い法衣の縁取りも初々しい、年若い令嬢が座っていた。頬は、父方の祖母に似ていると、ハインケル・フォン・グランツは、昔から思っていた。血の繋がった娘ではなかった。けれど、それに近しい距離で育てた姪だった。
「クラリス。戴冠式の次第は、もう読んだね」
「……はい、伯父様」
「少しだけ、変更がある」
ハインケルは、机の端の次第書を、滑らせるように、姪の方へ寄せた。姪の細い指が、おずおずと、それを引き寄せた。
「討伐の場面だ。お前の役は、これまで通り──ただ、防御魔法の発動順序を、一つ、後ろにずらす」
姪は、最初、意味が分からない顔をしていた。
分からないふりができたのは、そのほんの一瞬だけだった。
次の瞬間、彼女の瞳孔が、小さく、揺らいだ。
「──それは」
「本物の聖女物語を、完成させる」
ハインケルは、静かに微笑んだ。五年間、四代目に向けていた、あの微笑みだった。
「お前は、その、最初の悪役令嬢になる」
姪の指先は、次第書の端を、動かなくなった。
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◇ ◇ ◇
村の小屋の扉を、誰かが叩いたのは、夕方のことだった。
マルタばあちゃんが、ドアを開けて、それから、少し、戸惑った顔でこちらを振り返った。
「ロティス、お嬢さんがおひとりで。……お前さんを、訪ねてきなさった」
私は、手を拭って、玄関へ出た。
玄関の戸口の外に、立っていたのは、若い娘だった。
薄い旅用の外套の裾には、泥が跳ねていた。頬に、擦り切れた跡があった。長い栗色の髪は、結ばれていない方の側が、風で乱れていた。──そして、両の瞳が、ずっと、泣いた後の形をしていた。
「はじめまして、ロティス様」
声は、細かった。
「フィオナ様の後任として、神殿庁より任命を受けました、クラリス・フォン・グランツと、申します」
家名を聞いた瞬間、私は、息を止めた。
長官閣下の家名だった。
子が無く、姪を家に入れられた、という話は、五年前の研修の時に、どこかで聞いた。
「お入りください」と、私は言った。
私の声が、自分でも驚くほど、優しく出た。
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クラリスさんは、暖炉の前で、震えていた。
温まるまで、しばらく、何も訊ねなかった。マルタばあちゃんが、あたたかい麦湯を運んでくれた。それを両手で、抱くように持って、彼女は少しずつ、喉を、湿らせた。
「……私」
麦湯のカップに、涙が落ちた。
一度落ちると、止まらなかった。
「私、伯父様に、殺される予定だったんです」
暖炉の火が、ぱち、と跳ねた。
「戴冠式の討伐の場で──防御魔法の順序を、一つ、ずらすと。そう伯父様が。『本物の聖女物語を、完成させる』と、おっしゃって」
伏せた睫毛の先から、また、雫が落ちた。
「私、最初、意味が、分からなくて。分からないふりを、したかったんです、ほんとうは。でも、伯父様の、あの、笑顔が──」
言葉が、詰まった。
私は、カップの震えを止めるように、彼女の手の上に、自分の手を重ねた。
五年前の自分が、ここに座っていた気がした。
違うのは、ここには今、マルタばあちゃんの火があり、アーセル殿の目があり、──そして、私の手があることだ。
「大丈夫です」と、私は言った。
言葉が、訛った。
訛ったまま、もう一度、言った。
「大丈夫。もう、あの部屋には、帰さない」
クラリスさんは、カップを置いて、私の肩に、顔を伏せた。
泣き声は、静かだった。
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翌日、マルタばあちゃんの家の奥間に、人が集まった。
王弟エドムント殿下。アルドニア共和国の大使殿。アーセル殿。クラリスさん。そして、私。
王弟殿下は、思っていたよりも、落ち着いた声の方だった。威厳はあった。けれどそれは、振りかざす種類のものではなく、自然に立ち上がってくる種類のものだった。
「この話は、私が、長く、待っていたものだ」
王弟殿下は、そう切り出した。
三十年前に、一代目の悪役令嬢が、任期途中で「事故」に遭ったこと。公式記録では、事故だった。王弟殿下は、それを、事故だと思っていない。そう、一言、触れただけで、その先の経緯は、この場では語られなかった。語られない重さの方が、長く場に残った。
「戴冠式で、すべての証拠を、一度に、卓上に載せる」
殿下は、机の上に、二つの書類を広げた。
一つは、先夜の襲撃で回収された、長官閣下自筆の指示書。
もう一つは、神殿庁の会計帳簿の、写しの束。
「指示書は、殺害教唆の動かぬ証拠。帳簿は、二代に及ぶ横領の証拠。大使殿の証言で、制度そのものの欺瞞も、公的に立つ。勇者殿の加護で、長官の弁明の真偽が、その場で判じられる」
大使殿が、静かに頷いた。
「そして、貴女が」と、殿下の視線が、私に向いた。「辞令を、返上してほしい。──あの日、受理された書面を、もう一度、陛下の御前で、ご本人が」
私は、頷いた。
頷いたけれど、すぐに、もう一つ、付け足した。
「クラリスさんの証言が、核になります。彼女の身の安全は、最優先でお約束ください」
殿下は、深く、頷いた。
「約束する。──私の、個人の責任で」
奥間の空気が、少しだけ、柔らかくなった。
柔らかくなった空気の底に、けれど、まだ、一つだけ、私に未解のものが残っていた。
──私自身の、動き方の、動機の、核だ。
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夜、小屋に戻る道で、アーセル殿が、私の半歩先を、ゆっくり歩いていた。
雲が切れて、月が出ていた。
「ロティス」
立ち止まらないまま、彼は、声だけを落とした。
「俺は、君のためなら、何でもする」
言葉が、短かった。
短かったから、重かった。
「だから、君は──君のためだけに、動いてくれ」
振り返らずに、そう言った。
見えなかったけれど、たぶん、耳が、少しだけ、赤くなっていた気がした。
私は、彼の少し後ろで、足を止めた。
それから、半歩、前に、出た。
彼の手の、指の付け根の、節の少し上のところを、自分の指で、軽く、握った。
握り返されるまでに、少しだけ、間があった。
その間のことを、私は、たぶん、一生、覚えている。
「ありがとうございます」
そう言って、私は、歩き出した。
隣に、彼が、歩いていた。
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小屋の扉が、叩かれた。
先ほどとは違う、かしこまった、三度の調子だった。
マルタばあちゃんではなかった。村の誰でもなかった。
神殿庁の、正式の使者だった。
白い手袋、銀の徽章、懐からうやうやしく取り出された、金の縁取りの封書。
「退役令嬢ロティス・フォン・エヴァガルド嬢に、神殿庁長官閣下より、ご招待のご書状でございます」
私は、封書を受け取った。
封蝋を、指で、撫でた。
差出人の印は、長官閣下の、直筆の署名印だった。
使者が去った後、私は、封を、その場で切った。
> 戴冠式に際し、四代目悪役令嬢職を務められたロティス殿の、御列席を、賜りたい。
短い文面だった。
短いからこそ、最後の罠の形が、はっきりと、見えた。
私は、微笑んだ。
五年ぶりに、長官閣下のための微笑みを、もう一度、鏡の前で練習しなくていい笑顔として、作った。
「……お誘い、ありがとうございます」
誰にでもなく、封書に向かって、そう告げた。
暖炉の火が、まっすぐに、立っていた。
夜は、まだ、始まったばかりだった。




