第7話 君が無事でよかった
月のない夜だった。
だから、刃が光るのが、ひどくはっきり見えた。
夕方に感じた気配は、一度、遠くへ退いた。退いたけれど、消えてはいなかった。アーセル殿は、日が落ちてから、剣を抜いたまま小屋の入り口に立ち続けていた。私は、ランプの火を最低限に落とし、奥の壁に寄って座っていた。
風が、止まった。
止まった、と思った瞬間に、足音が聞こえた。
一つではなかった。複数の足音が、小屋の外側を、回り込むように動いていた。
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アーセル殿は、無言で、外へ出た。
私は、彼の後ろにいた。離れろ、と彼は言わなかった。離れろと言えば、私が素直に離れないことを、彼はもう、知っていた。
月のない闇の中に、動くものが三つあった。
黒い衣。顔は布で覆われている。腰の抜き身の刃が、星明かりだけをひろって、細く光った。
アーセル殿が前に出た。
私はその背中の、ほんの少しだけ後ろに残った。
剣の立ち合う音が、ひとつ、夜に響いた。
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速かった。
何が起きたか、私はほとんど目で追えなかった。アーセル殿の剣が、一度目の刃を弾き、二度目の敵の膝を払い、三度目の相手の肩を打った。そのあいだ、彼の足はほとんど動いていなかった。鍛冶屋の息子だと聞いていた青年の動きとは、別の種類の動きだった。
──背後。
そう思った時には、もう、遅かった。
村の納屋の陰から、四つ目の影が、私に向けて刃を突き出していた。夕方の気配の「もう一つ」が、そこで分かれていたらしい。私は、足が動かなかった。動かせる時間が、もう、残っていなかった。
アーセル殿の体が、割り込んだ。
金属の音と、布の裂ける音が、ほぼ同時に鳴った。
彼の左腕の袖に、黒い線が、縦に走った。
私は、その黒い線を、見ていた。
黒、というのは、血の色が、闇の中ではそう見えるという、それだけのことだった。
アーセル殿は、倒れなかった。
倒れるどころか、振り向きざまに、刃の主の手首を、剣の腹で強く打った。
刃が地に落ちた。
そのあとの、三つ目の敵の制圧までは、ほとんど、一息の間のことだった。
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森の側から、新しい足音の群れが、近づいてきた。
松明の列だった。
先頭に、紋章付きの外套を羽織った男が立っていた。年のいった、けれど姿勢の正しい男だった。王家の紋章ではなかった。王弟家の紋章だった。
「間に合ったようだな」
その声には、どこか、安堵と、それより少しだけ大きい、冷たい満足が混じっていた。
男は、縛り上げられた襲撃者たちの身ぐるみを、部下に命じて改めさせた。
内懐から、一通の書状が出てきた。
王弟家の指揮官が、封蝋を確かめ、封を切り、中身を一度だけ読んだ。
それから、静かに、頷いた。
「ご覧に入れます」
書状は、私の手には渡されなかった。アーセル殿の手にも渡されなかった。
王弟家の指揮官の胸元に、そのまま収められた。
「内容だけ、お伝え申し上げる」と、指揮官は私に向かって言った。「『悪役令嬢を生きたまま連れ戻す必要はない。むしろ、勇者の手で討たれた形にできれば最良である』──差出人は、神殿庁長官、ハインケル・フォン・グランツ閣下」
夜の空気の温度が、下がった気がした。
下がったように感じたのは、私の体の方が、先に冷えていたからかもしれない。
「これで、長官を動かせる」
指揮官は、それだけ呟いた。
私には、なぜ「これで」なのかは、まだ、分からなかった。
分からないまま、私は、アーセル殿の腕を、見ていた。
彼の袖の、黒い線は、少しずつ、濃く広がっていた。
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小屋に戻った。
マルタばあちゃんが、あかりを運んできて、桶にお湯を張ってくれた。
清潔な布と、薬草の香りの強い軟膏と、細い針と、絹糸。
私は、震える指先で、それらを机に並べた。
並べるだけなら、並べられた。
いざ、アーセル殿の傷口を前にすると、指が、言うことを聞かなかった。
「……手伝おうか」
「いいえ」
声が、少し、訛った。
訛ったまま、私は、水で傷口を洗った。
傷は、思ったよりは、浅かった。
けれど、浅いからこそ、自分の中の、何かの堰が、ぎしりと軋んだ。
──あと少し、角度が違えば。
考えかけて、私は、考えるのをやめた。考えたら、手が止まる。手が止まったら、傷が化膿する。化膿したら、この人が、熱を出す。熱を出したら──
「ロティス」
「……はい」
「呼吸、忘れんな」
小さく、笑う声が、聞こえた。
私は、息を、吐いた。
吐いたあとで、自分が、ずっと、息を止めていたことに気づいた。
針に、糸を通した。指は、まだ震えていた。それでも、通った。
縫い終わる頃には、外の松明の列が、もう、遠くへ引き上げていった。
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暖炉の火が、低くなった。
私は、軟膏の蓋を、ぱち、と閉めた。閉める音が、やたらに大きく聞こえた。
「……あなたを」
言いかけて、一度、息を吸い直した。
「なくしてしまうのが、こんなに──こわいと、思わなかった」
訛った。
訛ったまま、言い切った。
五年ぶりに、自分の体の、本当の温度で言葉を出した気がした。
アーセル殿は、暖炉の火を、見ていた。
しばらく、見ていた。
それから、ゆっくり、私の方を向いた。
「君が、無事で、よかった」
それだけ、彼は言った。
私は、立ち上がることが、できなかった。
立ち上がらないまま、彼の膝の横に、額を、そっと寄せた。
自分の髪が、彼の袖に触れた。
彼は、動かなかった。
動かないまま、小さく、息を吐いた。
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◇ ◇ ◇
──俺は、二年前から、君の本当の笑顔を、ずっと見たかった。
選定式の広間で、誰もが華やかに笑う中で、君だけが、笑いながら笑っていなかった。目の奥が、ずっと、疲れていた。俺は、それがひどく、痛かった。
だから、今、君の額が俺の袖に触れているのは、俺にとっては、二年分の答えだ。
言葉にはしない。
たぶん、言葉にしたら、君はまた、隠してしまう気がするから。
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◇ ◇ ◇
神殿庁長官室の机の上に、報告書が置かれていた。
『任務、失敗。執行者四名、全員拘束。書面の回収を許した可能性あり』
ハインケル・フォン・グランツは、報告書を、つかみ上げた。
つかみ上げた紙を、そのまま、机に叩きつけた。
音が、部屋の外の廊下にまで、聞こえた。
五年で辞めるというだけの話だった。三十年、磨き上げてきた制度の、ほんの、些細な綻びに過ぎないはずだった。それが今、王弟の手に、自筆の書面が渡ろうとしている。
深く、息を吐いた。
吐ききって、もう一度、吸った。
吸い切る前に、ハインケルは、燭台の下の引き出しを開けた。
戴冠式の次第書だった。
次代の聖女の、就任の、その儀式の。
「──もう、猶予はない」
呟きは、誰にも聞かれなかった。
そのつもりだった。
「戴冠式で、すべてを、決める」
燭台の炎は、まだ、立っていた。
夜は、まだ、明けきっていなかった。




