表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
国家公認"悪役令嬢"、本日付で辞職いたします  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/10

第6話 五十年前、隣国は気づいていました


マルタばあちゃんの家の台所は、朝のうちから、パンの焼ける匂いで満たされていた。


朝だというのに、かまどの火加減は夕方のそれだった。長く、低く、じわじわと熱を立ち上げる火。「お客さんは、時間をかけた火で迎えるもんだ」というのが、この家の決まり事らしかった。


──お客さん。


呼ばれる相手が、ふつうの客ではないことを、この家の人はきちんと分かっていた。

分かっていながら、変わらない火加減で、パンを焼いていた。


-----


私は、昨夜の封書を、膝の上に置いていた。


封を切ったのは、早朝のことだった。便箋は二枚だった。筆跡は整っていて、無駄がなかった。文面の終わりに、短く、会う場所の指定が記されていた。──マルタ・ホレンベルク家、本日、日が上りきる前に。


マルタばあちゃんは、私が手紙を読んだ時、そばにいた。手紙の内容を訊ねはしなかった。ただ、「承知した」と、一言だけ言った。それだけで、家の奥間が、会談のために整えられていった。


「お入りください」


ばあちゃんの声が、入り口の方で聞こえた。

長い外套を羽織った中年の男が、頭を下げて、入ってきた。


髪に白いものが混じっていた。眼鏡の奥の目は、深い色をしていた。

紹介は、最小限だった。


「アルドニア共和国駐ラインハルト大使、ヘルム・フレイダーと申します」


-----


奥間には、古い木の卓が一つと、椅子が三つ、それだけが置かれていた。


大使殿は、椅子に腰を下ろすと、革のかばんから、一冊の帳面を取り出した。表紙は黒く、装丁は飾りの無いものだった。指先で、帳面の角を、軽く整えた。


「単刀直入に申し上げます」


彼の声は、穏やかだった。

穏やかだったからこそ、次の言葉の重さが、ひと息で立った。


「貴国の聖女制度は、我がアルドニア共和国が、五十年前に内部告発によって廃止した詐欺手法と、同じ構造を持っております」


卓の上に、私の指先が、知らぬうちに、伸びていた。

伸びた指先を、自分でも気づかないうちに、握り直した。


「我が国では、制度を運営する神殿会計府が、凶作に備えた備蓄食糧の放出時期を、聖女物語の完成時期に合わせて操作しておりました。神の恵みと呼ばれた豊穣は──備蓄倉庫の、扉が開いた瞬間でした」


帳面を開いた指が、ページを順に送っていった。


「横領。書類の改竄。長官職の世襲に近い継承。──ここに、運営の手口が、すべて記されております」


私は、見た。


ページの文字を、目で追った。

追いながら、どこかで、冷たい感覚が、上から下へ、降りていくのを感じた。


五年間。


正義だとは、すでに、思っていなかった。二年目のどこかで、心の隅で、何かに気づいていた。気づかないふりをしていた。ふりをすれば、日々の仕事はこなせたからだ。


けれど、今、卓の上にある帳面の文字は、私の「気づかないふり」の、その向こう側を、はっきりと、書き記していた。


──私が五年、嫌々ながらに、手を貸してきたものは、こういうものだったのか。


「ロティス殿」


大使殿が、静かに、私の名を呼んだ。


「我が国の経験を、貴国の改革のために、お役立ていただきたい。制度の内部を知る方の証言が、我々には、どうしても必要です」


「……即答しかねます」と、私は言った。


声は、辛うじて、出た。


「しばらく、お時間をいただきたく」


「もちろんです。急がせはいたしません」


大使殿は、帳面を、静かに閉じた。

それから、少しだけ、視線を私の隣へ向けた。


隣の椅子には、アーセル殿が座っていた。彼は、会談のあいだ、ほとんど何も言わなかった。


「勇者殿」


大使殿は、アーセル殿を、そう呼んだ。


「貴方の加護のことは、存じ上げております。今の私の言葉に、嘘が混じっていたかどうか──ご確認いただけますか」


アーセル殿は、ひと呼吸、置いた。

それから、ゆっくり頷いた。


「嘘はない」


それだけ、彼は言った。

大使殿は、軽く、頭を下げた。

予想通り、という顔だった。


-----


大使殿が立ち上がった。

かばんを手に取り、扉へ向かった。

途中で、一度、振り返った。


「ロティス殿。ひとつだけ、申し上げてよろしいでしょうか」


「……はい」


「勇者殿は、貴女の本心を、すべて、ご覧になっておられます。貴女が、ご自身に隠しておられる分まで、です」


私の肩の力が、すっと、抜けた。

抜けて、そのあとで、ぎゅっと、別の場所が固まった。


「貴女が、勇者殿に隠していることは、ひとつもございません」


それだけを告げて、大使殿は、マルタばあちゃんに丁寧に挨拶をし、出ていった。


奥間には、閉じた帳面と、私と、アーセル殿が残った。

アーセル殿は、何も言わなかった。

私も、何も、言えなかった。


-----


一人になりたくて、私は、森へ出た。


アーセル殿は、「近くにいる」と短く言った。姿が見えない距離まで離れることは、許さない、という意味だったのだと思う。私は、小屋の裏の、低い木の林の中を、ゆっくりと歩いた。


枝と枝の間から、細い光が差していた。

地面は、湿っていた。


──私は、彼を。


言葉が、続かなかった。


何度か、口の中で、違う言葉で言い直してみた。

全部、うまく、形にならなかった。


正義じゃない制度に、五年、仕えた。

仕えさせた人たちを、これから、崩すことになるかもしれない。

でも、私が今、森の中で、一番、確かめたかったのは、制度のことではなかった。


一番確かめたかったのは、もっと、小さな感情だった。

小さすぎて、呼び方が、分からない感情だった。


──見抜かれていた、のだ。


それだけが、はっきり、思えた。


私は、木の幹に、片手をついた。

掌の下で、樹皮の凹凸が、少しずつ、温もった。

自分の体温が、そこに、伝わっていた。


五年間、誰にも、気づかれたくないと思って、自分でさえ気づかないようにしてきた、私の心の奥のちいさな場所。

そこを、たった一人だけ、ずっと、見ていた人がいたらしい。


私は、木の幹に、額を、そっと、当てた。

ほんの少しの間だけ、そうしていた。


-----


戻り道、畑の畦を歩いていると、風の方向が、変わった。


村の方からくる風ではなかった。

山の側からの、重くて、湿った風だった。

枝の揺れ方が、さっきまでと違った。


私の前に、アーセル殿が、立っていた。


彼の右手は、腰の剣の柄に、置かれていた。

視線は、森の奥を見ていた。

私の方は、見ていなかった。


「ロティス」


低い声だった。


「俺の、後ろに」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ