第6話 五十年前、隣国は気づいていました
マルタばあちゃんの家の台所は、朝のうちから、パンの焼ける匂いで満たされていた。
朝だというのに、かまどの火加減は夕方のそれだった。長く、低く、じわじわと熱を立ち上げる火。「お客さんは、時間をかけた火で迎えるもんだ」というのが、この家の決まり事らしかった。
──お客さん。
呼ばれる相手が、ふつうの客ではないことを、この家の人はきちんと分かっていた。
分かっていながら、変わらない火加減で、パンを焼いていた。
-----
私は、昨夜の封書を、膝の上に置いていた。
封を切ったのは、早朝のことだった。便箋は二枚だった。筆跡は整っていて、無駄がなかった。文面の終わりに、短く、会う場所の指定が記されていた。──マルタ・ホレンベルク家、本日、日が上りきる前に。
マルタばあちゃんは、私が手紙を読んだ時、そばにいた。手紙の内容を訊ねはしなかった。ただ、「承知した」と、一言だけ言った。それだけで、家の奥間が、会談のために整えられていった。
「お入りください」
ばあちゃんの声が、入り口の方で聞こえた。
長い外套を羽織った中年の男が、頭を下げて、入ってきた。
髪に白いものが混じっていた。眼鏡の奥の目は、深い色をしていた。
紹介は、最小限だった。
「アルドニア共和国駐ラインハルト大使、ヘルム・フレイダーと申します」
-----
奥間には、古い木の卓が一つと、椅子が三つ、それだけが置かれていた。
大使殿は、椅子に腰を下ろすと、革のかばんから、一冊の帳面を取り出した。表紙は黒く、装丁は飾りの無いものだった。指先で、帳面の角を、軽く整えた。
「単刀直入に申し上げます」
彼の声は、穏やかだった。
穏やかだったからこそ、次の言葉の重さが、ひと息で立った。
「貴国の聖女制度は、我がアルドニア共和国が、五十年前に内部告発によって廃止した詐欺手法と、同じ構造を持っております」
卓の上に、私の指先が、知らぬうちに、伸びていた。
伸びた指先を、自分でも気づかないうちに、握り直した。
「我が国では、制度を運営する神殿会計府が、凶作に備えた備蓄食糧の放出時期を、聖女物語の完成時期に合わせて操作しておりました。神の恵みと呼ばれた豊穣は──備蓄倉庫の、扉が開いた瞬間でした」
帳面を開いた指が、ページを順に送っていった。
「横領。書類の改竄。長官職の世襲に近い継承。──ここに、運営の手口が、すべて記されております」
私は、見た。
ページの文字を、目で追った。
追いながら、どこかで、冷たい感覚が、上から下へ、降りていくのを感じた。
五年間。
正義だとは、すでに、思っていなかった。二年目のどこかで、心の隅で、何かに気づいていた。気づかないふりをしていた。ふりをすれば、日々の仕事はこなせたからだ。
けれど、今、卓の上にある帳面の文字は、私の「気づかないふり」の、その向こう側を、はっきりと、書き記していた。
──私が五年、嫌々ながらに、手を貸してきたものは、こういうものだったのか。
「ロティス殿」
大使殿が、静かに、私の名を呼んだ。
「我が国の経験を、貴国の改革のために、お役立ていただきたい。制度の内部を知る方の証言が、我々には、どうしても必要です」
「……即答しかねます」と、私は言った。
声は、辛うじて、出た。
「しばらく、お時間をいただきたく」
「もちろんです。急がせはいたしません」
大使殿は、帳面を、静かに閉じた。
それから、少しだけ、視線を私の隣へ向けた。
隣の椅子には、アーセル殿が座っていた。彼は、会談のあいだ、ほとんど何も言わなかった。
「勇者殿」
大使殿は、アーセル殿を、そう呼んだ。
「貴方の加護のことは、存じ上げております。今の私の言葉に、嘘が混じっていたかどうか──ご確認いただけますか」
アーセル殿は、ひと呼吸、置いた。
それから、ゆっくり頷いた。
「嘘はない」
それだけ、彼は言った。
大使殿は、軽く、頭を下げた。
予想通り、という顔だった。
-----
大使殿が立ち上がった。
かばんを手に取り、扉へ向かった。
途中で、一度、振り返った。
「ロティス殿。ひとつだけ、申し上げてよろしいでしょうか」
「……はい」
「勇者殿は、貴女の本心を、すべて、ご覧になっておられます。貴女が、ご自身に隠しておられる分まで、です」
私の肩の力が、すっと、抜けた。
抜けて、そのあとで、ぎゅっと、別の場所が固まった。
「貴女が、勇者殿に隠していることは、ひとつもございません」
それだけを告げて、大使殿は、マルタばあちゃんに丁寧に挨拶をし、出ていった。
奥間には、閉じた帳面と、私と、アーセル殿が残った。
アーセル殿は、何も言わなかった。
私も、何も、言えなかった。
-----
一人になりたくて、私は、森へ出た。
アーセル殿は、「近くにいる」と短く言った。姿が見えない距離まで離れることは、許さない、という意味だったのだと思う。私は、小屋の裏の、低い木の林の中を、ゆっくりと歩いた。
枝と枝の間から、細い光が差していた。
地面は、湿っていた。
──私は、彼を。
言葉が、続かなかった。
何度か、口の中で、違う言葉で言い直してみた。
全部、うまく、形にならなかった。
正義じゃない制度に、五年、仕えた。
仕えさせた人たちを、これから、崩すことになるかもしれない。
でも、私が今、森の中で、一番、確かめたかったのは、制度のことではなかった。
一番確かめたかったのは、もっと、小さな感情だった。
小さすぎて、呼び方が、分からない感情だった。
──見抜かれていた、のだ。
それだけが、はっきり、思えた。
私は、木の幹に、片手をついた。
掌の下で、樹皮の凹凸が、少しずつ、温もった。
自分の体温が、そこに、伝わっていた。
五年間、誰にも、気づかれたくないと思って、自分でさえ気づかないようにしてきた、私の心の奥のちいさな場所。
そこを、たった一人だけ、ずっと、見ていた人がいたらしい。
私は、木の幹に、額を、そっと、当てた。
ほんの少しの間だけ、そうしていた。
-----
戻り道、畑の畦を歩いていると、風の方向が、変わった。
村の方からくる風ではなかった。
山の側からの、重くて、湿った風だった。
枝の揺れ方が、さっきまでと違った。
私の前に、アーセル殿が、立っていた。
彼の右手は、腰の剣の柄に、置かれていた。
視線は、森の奥を見ていた。
私の方は、見ていなかった。
「ロティス」
低い声だった。
「俺の、後ろに」




