第5話 聖女様、お忙しいところを
朝霧の中で、鈴の音がした。
一頭の馬では出ない、音の重なり方だった。馬車の鈴。それも、一台ではなかった。
私は、蜂蜜を詰めた瓶を布で拭く手を、止めた。
窓の外、村の広場の方から、騒めきが広がっていく。マルタばあちゃんの孫らしい少年が、畑を駆けて坂道を下りていくのが見えた。何かを、家に知らせに行ったのだろう。
アーセル殿が、鍛冶の作業場から、革の前掛けを外しながら出てきた。
「来たな」と、彼は低く言った。
「来た、とは」
「使者だ。たぶん、神殿庁から」
彼の耳は、鈴の鳴り方で、どこの馬具か分かるらしかった。
鍛冶屋の耳だった。
-----
広場には、物々しい行列が停まっていた。
先頭の馬車の扉が、開いた。中から降り立ったのは、白い法衣に銀の縁取りをまとった、年若い娘だった。ふんわりと波打つ金の髪、長く整えられた睫毛。頬に乗った薄い紅の粉。聖女像の絵姿から抜け出てきたような──そういう姿をしている娘だった。
フィオナ・カザリエ。
当代の聖女。
会ったことは、ある。儀礼の場で。笑っていた顔だけを、覚えている。
「皆さん」と、彼女は両手を広げた。声の当て方が、しなやかだった。
「神のお導きで、私はこの村に参りました。どうか、私の言葉をお聞きください」
村人たちが、集まり始めた。マルタばあちゃんは、杖をついて、私の隣に立っていた。アーセル殿は、少し後ろに。
「王都にて、悲しい誤解が生じました。四代目悪役令嬢ロティス嬢は、辞令を誤って提出なさった。本来、ご本人の心はまだ御役目の中にございました。私は、ロティス嬢を王都へお連れし、穏やかに元の場所にお戻しするために、参ったのです」
涙さえ、浮かべていた。
どうやって浮かべているのか、知りたいくらいだった。
私は、前に出た。
「聖女様。お忙しいところを、遠くまで」
声は、きちんと出た。昨日まで蜂蜜を舐めて泣いていた喉が、今朝は、五年間の訓練を思い出したらしい。
「一点、ご確認をお許しください。私は、辞令返上の手続きを、内部規定第四十七条に則り、正規に終えております。神殿庁の長官閣下にもご受理いただいた手続きです。現在の私は、退役令嬢でございまして、悪役令嬢職にはございません」
「それは──」
「退役令嬢の連行は、神殿庁の管轄ではございません。聖女様ご本人にも、その権限は付与されておりません。規定書第六条にございます通り」
フィオナの微笑みが、凍った。
凍り方が、長官閣下のそれと、少し違った。慣れていない、という感じの凍り方だった。
三年では、ああいう顔は隠し切れないらしい。
「──黙れ!」
声が、裏返った。
「私は神の使いだ! 黙れ、小娘が!」
広場の空気が、ぴたり、と止まった。
止まった空気の真ん中で、私の隣のマルタばあちゃんが、杖を持ち替えた。
「聖女様」
ゆっくりと、しわがれた声が上がった。
「声を荒げる聖女ってのは──わたしは、初めて見ましたよ」
老女の、なんでもない一言だった。
けれど、その一言が、広場の空気を、ぎしり、と動かした。
誰かが息を呑んだのが、聞こえた。誰かが首を傾けたのが、見えた。金の髪の聖女様の白い法衣が、少しだけ、色を失って見えた。
「勇者! 勇者よ、私を守れ!」
フィオナの指が、アーセル殿に向けられた。
アーセル殿は、動かなかった。
「勇者の出動は、王命によってのみ行われます」と、彼は静かに言った。「聖女様のお言葉は、王命ではございません」
規定通り、だった。
彼の口調は、いつも通り、不器用なくらいに真面目だった。
-----
フィオナが、馬車へ戻る合図を出した。
引き上げ方が、来た時と、少し違った。扉を閉める音が、強すぎた。御者の一人が、慌てて手綱を握り直していた。
そのとき、馬車の列の陰から、若い娘が、一人、歩み出てきた。
リアだった。
手に、野の花を一束、持っていた。黄色い小さな花が、ほとんど茎ばかりの束の中で、申し訳なさそうに咲いていた。
「あの、アーセル様」
彼女は、頬を赤くしていた。
「これ、よかったら」
広場の人々が、ふっと、静かになった。
私は、何も、言えなかった。
アーセル殿は、花を受け取らなかった。
ただ、ゆっくりと、頭を下げた。
「ありがとう。でも、俺には、他に大切な人がいる」
リアの肩が、小さく、揺れた。
目の端が、ほんの少しだけ、濡れて光った。
でも、彼女は、泣かなかった。
ふっと、息を吐いて、顔を上げた。
「──やっぱり、ロティス様ですよね」
花束を、自分の胸の前に、大事に抱え直した。
「知ってました。アーセル様って、ロティス様のこと見る時だけ、目が違いますもん」
リアは、そう言って、笑った。
笑ったまま、くるりと、背を向けた。
広場の端へ、小走りに駆けていった。
花束は、彼女の腕に、抱かれたままだった。
私は、動けなかった。
しばらく、動けなかった。
──目が、違う。
そんなこと、私は、今まで、知らなかった。
-----
夜、小屋の暖炉の前で。
私は、蜂蜜の瓶を、棚に並べ直していた。並べ直す必要は、なかった。ただ、手が、何かしていないと、落ち着かなかった。
「ありがとうございます」
瓶を一つ置いて、私はそう言った。
アーセル殿は、薪の端を、火の中に押し込んでいた。
「なんに対して」
「……全部に」
「そっか」
それだけ、彼は答えた。
火が、ぱち、と一度、跳ねた。
私は、その音を、少し長く、聞いていた。
-----
◇ ◇ ◇
長官室の机の上に、一通の報告書が広げられていた。
差出人欄には、聖女の護衛長の署名。内容は短かった。──村人の動揺が想定以上で、聖女の威光に綻びが見える。現地の情勢を鑑み、強行はすべきでないと判断し、撤退。
ハインケル・フォン・グランツは、書面を閉じた。
閉じた書面の下に、別の紙束を引き出した。
机の上にそれを広げた。
名簿だった。
ひとつひとつの名前に、隣の欄で、短い職種が記されている。帝国の南方で傭兵をしていた者。旧神殿庁から解雇された元警邏。名を変えて街に紛れている元騎士。──そういう類の名前が、並んでいた。
「聖女が役に立たぬなら」と、ハインケルは低く呟いた。
指が、名簿の一行を、なぞった。
「別の手を、打つまでだ」
燭台の炎は、まっすぐに立っていた。
夜は、まだ、浅かった。
-----
小屋の戸を、誰かが叩いたのは、真夜中に近い時刻だった。
村の男が、息を切らして立っていた。隣の町まで仕事に出ていた帰りだという。途中の街道で、旅姿の男に呼び止められ、この封書を、ヴェルガル村のロティスという女性に渡してほしい、と頼まれたのだと。
私は、手紙を受け取った。
封蝋の紋章に、見覚えがあった。
けれど、王家の紋章ではなかった。
向きを変えた月桂樹と、穀物の束。
──アルドニア共和国の、外交封印。
封を、私は、切らなかった。
切らないまま、しばらく、灯火の前に置いていた。
アーセル殿は、何も訊ねなかった。
ただ、私の隣で、静かに、座っていた。




