第4話 蜂蜜って、こんなに甘いんですね
蜜蜂の羽音は、思っていたよりも、ずっと低かった。
低くて、太くて、小屋の前の空気を、じわりと震わせる。怖くはなかった。怖がる前に、なにか別のものに気を取られたからだ。土の匂い。藁の匂い。それから、たぶん、薪の煙の匂い。
ヴェルガル村の朝は、そういう匂いから始まるらしい。
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村の入り口で、私たちを最初に出迎えてくれたのは、年配の女性だった。
腰のあたりまで届きそうな白髪を、無造作に三つ編みにしている。足元は草臥れた革靴。手には、薄い灰色の毛糸玉。何かを編みかけのまま外に出てきたらしかった。
「アーセル坊や」
ぱっと顔が綻んだ。
「うちの坊やが、戻ってきてくれた」
アーセル殿は、少し照れた表情で頭を下げた。鍛冶屋の青年が、ふいに、近所のおばあちゃんに会った子どもの顔になった。
「マルタばあちゃん。ご無沙汰してます」
「ご無沙汰だなんて、他人みたいな言い方おしでないよ」
それから、マルタばあちゃんは、私の方を見た。
警戒も、好奇も、なかった。
ただ、見ていた。
「アーセル坊やが連れてきた人なら、誰だって、うちの家族さね」
──家族。
私は、なぜか、すぐには返事ができなかった。
返事の代わりに、靴の先に視線を落とした。靴の縁に、街道の埃がうっすら付いていた。それが目に入って、ようやく、「ありがとうございます」と、口だけが動いた。
マルタばあちゃんは、笑っていた。何も言わず、笑っていた。
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祖母様の遺された小屋は、村の外れにあった。
裏手の小さな畑の、さらに奥に、低い屋根の作業場があって、そこに巣箱が並んでいた。木の箱が三つ。一番手前のものは少し傾いていた。
「うちの旦那が生きてた頃、坊やの婆様と一緒に作った巣箱さ」
マルタばあちゃんが、傾いた箱の角を、手のひらで撫でた。
「あんた、養蜂やってみるかい」
「私が、ですか」
「やってみたい顔、しとるよ」
していた、らしい。
自分では、分からなかった。
教わった。蜂帽を被ること。煙を焚くこと。動くなら、ゆっくり動くこと。蜂は急ぐ人が好きじゃないこと。
巣板を引き上げたとき、初めて、本物の蜜の匂いを嗅いだ。
甘くて、青くて、少しだけ、土に似ていた。
匙の先に、ほんの少しだけ、垂らしてもらった。
私はそれを、口に運んだ。
──……。
何も言えなかった。
というより、言葉が、ぜんぶ、頭の中で迷子になった。
「あら」と、マルタばあちゃんが、ふっと目を細めた。「お嬢さん、泣いとるよ」
「えっ」
頬を触ったら、本当に濡れていた。
どうして、と思った。
泣くつもりなんて、なかったのに。
「……蜂蜜って、こんなに甘いんですね」
口から、勝手にそう出た。
公務でない、自分の声が出た。
五年と少し、覚えていなかった声だった。
マルタばあちゃんは、何も言わずに、もう一匙、私の口元に運んでくれた。
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午後、私は祖母様の遺された台所で、空き瓶を洗っていた。
蜂蜜を入れるための瓶だ。マルタばあちゃんが「使っておくれ」と置いていってくれた。井戸まで行って水を汲み、瓶を逆さに並べて、布巾で口を拭く。順番に並べていく。
井戸の方から、笑い声が聞こえた。
私は手を止めて、開いた窓の方を見た。
井戸の脇で、アーセル殿が桶を担ぎ上げていた。彼の隣に、若い娘が立っていた。村の娘らしかった。年は、私より少し下だろうか。リア、と誰かが呼んでいたから、たぶん、それが名前だ。
リアは、何かをアーセル殿に話しかけていた。話しかけながら、自分の指を、髪の端でくるくると弄っていた。
アーセル殿は、桶を肩に乗せたまま、彼女に何か応えていた。
表情は、見えなかった。
──……。
胸の、奥の、なんでもない場所が、ふっと、詰まった。
詰まって、それから、ゆっくり、戻った。
私は、瓶を一つ取って、布巾で拭き直した。
拭く必要は、なかった。さっき拭いたばかりの瓶だった。
──私には、関係ないこと。
そう、自分に言い聞かせた。
言い聞かせるということは、言い聞かせないと忘れそうだから、言い聞かせるのだ、たぶん。
そういう順番を、自分で確かめてしまって、私は布巾を、台の上に置いた。
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夜、小屋の暖炉に火が入っていた。
アーセル殿は、夕方のうちに祖母様の作業場の鍛冶炉を直していた。明日からは、村の鍬や鎌の修理を引き受けるらしい。村の鍛冶屋は、冬に亡くなって、ずっと止まったままだったそうだ。
私は、暖炉のそばで、洗っておいた瓶を、布で乾かしていた。
「ロティス」
呼ばれた。
最近、彼は、人前ではちゃんと「ロティス嬢」と呼ぶ。二人きりの時にだけ、こうやって、名前で呼ぶ。それがいつ始まった習慣だったか、思い出せなかった。思い出せないということは、自然に始まったということだろう。
「これ、君のために作った」
差し出されたのは、銀の細工をした、小ぶりのナイフだった。
刃は薄く、優しく丸みを帯びている。蜂蜜の巣板を切り分けるためのものだと、見ただけで分かった。柄には、小さな花が、一輪、彫ってあった。素朴な彫りだった。職人の手の温度が、まだ残っていそうな彫りだった。
「……あの、これは」
「うん」
それ以上、彼は言わなかった。
言わない人なのだ、この人は。
私は、ナイフを、両手で受け取った。
柄の花の彫りに、指の腹がそっと触れた。
触れて、なぜだろう、もう一度、目の奥が熱くなった。
──私、今日、何回泣くつもりなの。
そう自分にツッコミを入れたら、少しだけ、笑えた。
笑えたから、たぶん、大丈夫だった。
「ありがとうございます」
それだけ言って、私はナイフを、布の上に大切に置いた。
彼は、満足したような顔で、暖炉の火を見た。
その横顔は、見ない方がよかったかもしれない。
見たら、もう、ごまかせなくなる気がした。
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戸口を、誰かが叩いた。
村の少年だった。手に、封筒を一通持っていた。
「あの、ロティスさんって、ここの人で、合ってますか」
「……はい、私です」
「届けものです。王都から、早馬で来てたって」
封筒を受け取った。
紙の質が、村のものではなかった。重くて、滑らかで、端に金の縁取りがある紙だ。
神殿庁で、見飽きた紙だ。
封蝋の紋章を、私は見た。
聖女の杖と、月桂樹。
差出人の名は、封の裏に、はっきりと記されていた。
> 聖女フィオナ・カザリエ
暖炉の火が、ぱちん、と一度、跳ねた。
私は、封を切らないまま、それを膝の上に、そっと置いた。




