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国家公認"悪役令嬢"、本日付で辞職いたします  作者: 秋月 もみじ


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3/10

第3話 都を出ます。お引き止めはご遠慮ください


部屋には、家具がほとんど置いていなかった。


神殿庁支給の調度は備え付けで、私の持ち物といえば、衣装箱が一つと、本が二束、それと、母から渡された櫛が一つ。櫛は革の小箱に入れて、肌身離さず持っていた。


革の小箱を、外套の内側のポケットに入れた。

それで、荷造りはほとんど終わったことになる。


-----


朝、馬車を呼んだ。


神殿庁支給の馬車ではなく、町の貸し馬車だ。御者は中年の男で、顔の半分が日に焼けていた。たぶん、片側の窓ばかり開けて走る癖があるのだろう。


「どちらまで」

「南の街道を、行けるところまで」


御者は何も訊ねなかった。良い御者だと思った。良い御者は、客の事情に首を突っ込まない。


部屋の鍵を、扉の外側の郵便受けに入れた。

封筒の宛名は、ひとこと──「神殿庁御中」。


それで、五年が終わった。

終わったはずだった。


-----


王都の城門前には、人だかりがあった。


正確には、人だかりではなかった。神殿庁の制服を着た男たちが、十人ほど、門の前に並んでいた。腰には剣。右胸には、見慣れた銀の徽章。


馬車を停めさせた。


「お降りください、ロティス嬢」


先頭の男が前に出た。顔は知っていた。神殿庁の警邏長で、儀礼の警備で何度も顔を合わせた相手だ。彼の名前は思い出せなかった。たぶん、五年間、一度も名前を呼んだことがなかったからだ。


「身柄を確認させていただきます。長官閣下のご命令です」


「身柄の確認、と申しますと」


「王都を離れる予定はないと、長官閣下は伺っております。誤解があるなら、神殿庁にお戻りいただきたい」


笑顔だった。

五年間、ずっと笑顔だった人の、部下の笑顔だった。


御者が、ちらりと振り返った。私は何も言わなかった。何も言えなかった、というのが正確かもしれない。


──やっぱり、来た。


そう思いつつ、頭の片隅では、別のことも考えていた。

規定で勝つというのは、紙の上で勝つことであって、門の前に並ぶ十人を消すことではないらしい。

当たり前のことだ。なのに、知らなかった。


「失礼」


低い声が、馬車の脇から聞こえた。


腰に剣を下げた青年が、ゆっくりと前に出てきた。アーセル殿だ。今朝も、剣を下げていた。


「勇者の出張は、王命によって行われる。神殿庁の警邏が止められるものじゃない」


それだけ言って、彼は私の馬車の脇に立った。


警邏長の笑顔が、わずかに、固まった。


「勇者殿。これは神殿庁の内部処理に属する案件であり──」


「俺は今朝、王命で南方へ出向く。同行者は誰でも、王命の保護下に入る。これも内部規定にあるはずだ。長官閣下の規定書だ」


警邏長は何も言わなかった。

言えないのだろう。あるいは、言うための上の指示が、まだ届いていないのだろう。


そのとき、城門の脇から早馬が一頭、駆け寄ってきた。


-----


馬から降りたのは、紋章付きの上着を着た伝令官だった。腰の脇に、王家の封蝋を施した書状を提げている。


「神殿庁警邏長殿に、急ぎのお届けものです」


警邏長が受け取った。封蝋を確かめて、封を切った。

書状を広げた手が、止まった。

書状を広げたまま、しばらく、止まっていた。


私は、書状の文面を見たわけではなかった。

ただ、警邏長の頬の線が、ほんの少しだけ強張ったのを見ていた。


「……ご、ご無礼を申し上げました、ロティス嬢」


警邏長は、深々と頭を下げた。

彼の部下たちが、慌てて後ろに下がった。


「お通りください。我々はここで失礼いたします」


何が書いてあったのか、伝令官が小声で、私に教えてくれた。書状を私には渡さず、文面だけを口頭で。


> 『四代目悪役令嬢ロティス・フォン・エヴァガルド嬢は、本日より私の客人である。神殿庁の追跡を即時中止せよ。──王弟エドムント』


王弟殿下のお名前を聞いたのは、この五年で何度もない。

直接お会いしたことは、たぶん、ない。

たぶん、というのは、儀礼の場で遠目にお見かけしたことならあるからで、けれど、目を合わせて言葉を交わした記憶は、私の中にはない。


なぜ、王弟殿下が。


馬車に戻った。御者は、何も訊ねなかった。良い御者だと、もう一度思った。アーセル殿は当たり前のように私の隣に座った。剣を膝の上に置いて、外を見た。


馬車が、動き出した。


-----


王都の城壁が、後ろに流れていった。


街道は乾いていて、車輪の音が大きかった。窓を開けたら、風が思ったより冷たかった。春の朝の風だ。陽が高くなれば暖かくなるはずの風が、どうしてかこの瞬間、冷たく感じた。


肩のあたりが、震えていた。


寒いのだろうか。

寒いことにしておこう、と思った。


「これ、使ってくれ」


アーセル殿が、自分の外套を脱いで、私の肩にかけた。

私は、慌てた。


「ご自身がお冷えになります」

「君の方が、冷えてる」


それだけ言って、彼はまた窓の外を見た。

外套の内側に、彼の体温が残っていた。少しだけ、鍛冶仕事の煙の匂いがした。私は、その匂いを知らないのに、知っているような気がした。


しばらく、馬車の音だけが続いた。


「あの」と、私は声を出した。「なぜ、私を助けてくださるのですか」


聞かないでおこう、と思っていた。

けれど聞いてしまった。

聞いてしまったあとで、あ、と気づいた。


──私、まだこの人の答えを、聞きたいんだ。


アーセル殿は、しばらく窓の外を見ていた。


「五年間」と、ようやく彼は言った。「君が嫌々演じてた姿を、誰も見てくれなかったから」


それだけだった。

それ以上は、言わなかった。


私は、外套の襟を、少しだけ握った。

握っていないと、たぶん、何かが落ちそうだった。


──……ずるい。


胸の中で、誰かがそう呟いた。

誰だろう、それ。

五年ぶりに聞いた声だった。


-----


◇ ◇ ◇


長官室の机の上には、新しい書類が広げられていた。


『悪役令嬢職任命書 ── 第五代』


下の名前の欄には、見慣れた家名が書いてある。フォン・グランツ。──姪の名だ。


ハインケル・フォン・グランツは、ペンを取った。


迷いはなかった。あの娘は、私が手のひらの上で育てた。書類の文字も、社交の作法も、誰を頼り、誰を恐れるべきかも、すべて私が教えた。先代のように、勝手に育つことはない。


署名を入れた。

紙を、書類入れに収めた。


「次は、私の意のままに動く駒だ」


低く呟いた。


机の脇の燭台は、新しい蝋燭に替えられていた。

炎は真っ直ぐに立っていた。

午後の光が、まだ、傾く前のことだった。

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