第3話 都を出ます。お引き止めはご遠慮ください
部屋には、家具がほとんど置いていなかった。
神殿庁支給の調度は備え付けで、私の持ち物といえば、衣装箱が一つと、本が二束、それと、母から渡された櫛が一つ。櫛は革の小箱に入れて、肌身離さず持っていた。
革の小箱を、外套の内側のポケットに入れた。
それで、荷造りはほとんど終わったことになる。
-----
朝、馬車を呼んだ。
神殿庁支給の馬車ではなく、町の貸し馬車だ。御者は中年の男で、顔の半分が日に焼けていた。たぶん、片側の窓ばかり開けて走る癖があるのだろう。
「どちらまで」
「南の街道を、行けるところまで」
御者は何も訊ねなかった。良い御者だと思った。良い御者は、客の事情に首を突っ込まない。
部屋の鍵を、扉の外側の郵便受けに入れた。
封筒の宛名は、ひとこと──「神殿庁御中」。
それで、五年が終わった。
終わったはずだった。
-----
王都の城門前には、人だかりがあった。
正確には、人だかりではなかった。神殿庁の制服を着た男たちが、十人ほど、門の前に並んでいた。腰には剣。右胸には、見慣れた銀の徽章。
馬車を停めさせた。
「お降りください、ロティス嬢」
先頭の男が前に出た。顔は知っていた。神殿庁の警邏長で、儀礼の警備で何度も顔を合わせた相手だ。彼の名前は思い出せなかった。たぶん、五年間、一度も名前を呼んだことがなかったからだ。
「身柄を確認させていただきます。長官閣下のご命令です」
「身柄の確認、と申しますと」
「王都を離れる予定はないと、長官閣下は伺っております。誤解があるなら、神殿庁にお戻りいただきたい」
笑顔だった。
五年間、ずっと笑顔だった人の、部下の笑顔だった。
御者が、ちらりと振り返った。私は何も言わなかった。何も言えなかった、というのが正確かもしれない。
──やっぱり、来た。
そう思いつつ、頭の片隅では、別のことも考えていた。
規定で勝つというのは、紙の上で勝つことであって、門の前に並ぶ十人を消すことではないらしい。
当たり前のことだ。なのに、知らなかった。
「失礼」
低い声が、馬車の脇から聞こえた。
腰に剣を下げた青年が、ゆっくりと前に出てきた。アーセル殿だ。今朝も、剣を下げていた。
「勇者の出張は、王命によって行われる。神殿庁の警邏が止められるものじゃない」
それだけ言って、彼は私の馬車の脇に立った。
警邏長の笑顔が、わずかに、固まった。
「勇者殿。これは神殿庁の内部処理に属する案件であり──」
「俺は今朝、王命で南方へ出向く。同行者は誰でも、王命の保護下に入る。これも内部規定にあるはずだ。長官閣下の規定書だ」
警邏長は何も言わなかった。
言えないのだろう。あるいは、言うための上の指示が、まだ届いていないのだろう。
そのとき、城門の脇から早馬が一頭、駆け寄ってきた。
-----
馬から降りたのは、紋章付きの上着を着た伝令官だった。腰の脇に、王家の封蝋を施した書状を提げている。
「神殿庁警邏長殿に、急ぎのお届けものです」
警邏長が受け取った。封蝋を確かめて、封を切った。
書状を広げた手が、止まった。
書状を広げたまま、しばらく、止まっていた。
私は、書状の文面を見たわけではなかった。
ただ、警邏長の頬の線が、ほんの少しだけ強張ったのを見ていた。
「……ご、ご無礼を申し上げました、ロティス嬢」
警邏長は、深々と頭を下げた。
彼の部下たちが、慌てて後ろに下がった。
「お通りください。我々はここで失礼いたします」
何が書いてあったのか、伝令官が小声で、私に教えてくれた。書状を私には渡さず、文面だけを口頭で。
> 『四代目悪役令嬢ロティス・フォン・エヴァガルド嬢は、本日より私の客人である。神殿庁の追跡を即時中止せよ。──王弟エドムント』
王弟殿下のお名前を聞いたのは、この五年で何度もない。
直接お会いしたことは、たぶん、ない。
たぶん、というのは、儀礼の場で遠目にお見かけしたことならあるからで、けれど、目を合わせて言葉を交わした記憶は、私の中にはない。
なぜ、王弟殿下が。
馬車に戻った。御者は、何も訊ねなかった。良い御者だと、もう一度思った。アーセル殿は当たり前のように私の隣に座った。剣を膝の上に置いて、外を見た。
馬車が、動き出した。
-----
王都の城壁が、後ろに流れていった。
街道は乾いていて、車輪の音が大きかった。窓を開けたら、風が思ったより冷たかった。春の朝の風だ。陽が高くなれば暖かくなるはずの風が、どうしてかこの瞬間、冷たく感じた。
肩のあたりが、震えていた。
寒いのだろうか。
寒いことにしておこう、と思った。
「これ、使ってくれ」
アーセル殿が、自分の外套を脱いで、私の肩にかけた。
私は、慌てた。
「ご自身がお冷えになります」
「君の方が、冷えてる」
それだけ言って、彼はまた窓の外を見た。
外套の内側に、彼の体温が残っていた。少しだけ、鍛冶仕事の煙の匂いがした。私は、その匂いを知らないのに、知っているような気がした。
しばらく、馬車の音だけが続いた。
「あの」と、私は声を出した。「なぜ、私を助けてくださるのですか」
聞かないでおこう、と思っていた。
けれど聞いてしまった。
聞いてしまったあとで、あ、と気づいた。
──私、まだこの人の答えを、聞きたいんだ。
アーセル殿は、しばらく窓の外を見ていた。
「五年間」と、ようやく彼は言った。「君が嫌々演じてた姿を、誰も見てくれなかったから」
それだけだった。
それ以上は、言わなかった。
私は、外套の襟を、少しだけ握った。
握っていないと、たぶん、何かが落ちそうだった。
──……ずるい。
胸の中で、誰かがそう呟いた。
誰だろう、それ。
五年ぶりに聞いた声だった。
-----
◇ ◇ ◇
長官室の机の上には、新しい書類が広げられていた。
『悪役令嬢職任命書 ── 第五代』
下の名前の欄には、見慣れた家名が書いてある。フォン・グランツ。──姪の名だ。
ハインケル・フォン・グランツは、ペンを取った。
迷いはなかった。あの娘は、私が手のひらの上で育てた。書類の文字も、社交の作法も、誰を頼り、誰を恐れるべきかも、すべて私が教えた。先代のように、勝手に育つことはない。
署名を入れた。
紙を、書類入れに収めた。
「次は、私の意のままに動く駒だ」
低く呟いた。
机の脇の燭台は、新しい蝋燭に替えられていた。
炎は真っ直ぐに立っていた。
午後の光が、まだ、傾く前のことだった。




