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国家公認"悪役令嬢"、本日付で辞職いたします  作者: 秋月 もみじ


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第2話 辞令返上のお願いを申し上げます


朝のうちに、髪を結い直した。


侍女には頼まなかった。鏡の前に座って、自分の手で、いつもの形に整えた。耳の後ろに垂らす一房だけを、ほんの少し短く挟んだ。長官閣下が「お似合いだ」と言った形だ。五年間、私はその形でいた。今朝もそれにする。


最後にそれにする、と言ったほうが正確かもしれない。


-----


神殿庁の廊下は、朝の光を吸い込んで、白すぎる色をしていた。


絨毯の縁に金糸が走っている。歩くたびに足の裏で繊維が沈むのが分かる。沈んで、戻る。沈んで、戻る。今日初めて、その感触に気づいた。気づくということは、たぶん、これが最後だからだ。


長官室の扉の前で、私は深く息を吸った。

吸って、吐いた。

それから、扉を叩いた。


「お入りなさい」


優しい声がする。

五年間、ずっと優しい声だった人だ。


-----


「冗談でしょう、ロティス嬢」


机の上に置いた一枚の紙を、長官閣下は二本の指で軽く持ち上げ、また置いた。受け取りはしなかった。


「今日はあなたの人生の晴れ舞台ですよ。五年の務めの集大成が、今夜、聖堂で待っている。それを朝になって辞めるなどと──疲れていらっしゃるのでしょう。私が悪い。昨夜の打ち合わせを長引かせすぎた」


笑顔だった。

五年間、ずっと笑顔だった人だ。


「お休みになりなさい。これは無かったことに」


長官閣下は紙を持ち上げ、机の脇の燭台に近づけた。

私は、その手を見ていた。


「神殿庁内部規定、第四十七条」


声は、自分でも驚くくらい、平らに出た。


長官閣下の手が止まる。


「悪役令嬢職の辞職は、当該悪役令嬢の本人意思に基づき、討伐儀礼の二十四時間前までに書面をもって提出することができる。受理を拒む権限は、神殿庁長官にも、神殿庁次官にも、王室典礼局にも、与えられていない」


そらんじた。間違えなかった。間違える可能性のあるものは、五年もあれば全部潰してきた。


「規定書通りでございます。お確かめになりますか」


長官閣下の指は、紙を燭台に近づけたまま、止まっていた。

笑顔も、止まっていた。


止まっている顔というのは、初めて見た。

五年間、一度も見たことがなかった。


「……お詳しいのですね、ロティス嬢」


「悪役令嬢職を務める者の義務として、職務規定の暗記は採用条件に含まれております。長官閣下のご指示でございました」


「そうでしたか」


「五年前の研修初日、長官閣下ご自身がそうおっしゃいました」


長官閣下は、紙を燭台から離した。

燭台の炎は揺れもしなかった。


「では、受理しましょう」と、長官閣下は言った。


笑顔が戻っていた。戻り方が、少しだけ早すぎた。


「ただし、辞職後の処遇については、追って正式に話し合わせていただきます。退役後の年金、領地の選択、社交界での身分の変更──手続きは煩雑です。今しばらく、王都にお留まりを」


「お気遣いに感謝いたします」と、私は微笑み返した。「ところで、長官閣下」


「何でしょう」


「五年間、私の家族から届いた手紙を、長官閣下のお部屋で開封なさっていたのは、どなたのお指図でしょうか」


部屋の温度が、下がった。


下がったように感じた、というのが正確かもしれない。長官閣下は何も答えなかった。優しい笑みを、笑みのまま、貼り付けたままにしていた。


「父の筆跡は、私が一番よく知っております。届いた手紙の筆跡は、父のものではございませんでした。──五年間、ずっと」


「ロティス嬢」


「これも内部規定でございますか。それとも、規定外の行為でございますか」


長官閣下は答えなかった。


私は深々と一礼して、扉に向かった。

背中に、視線が突き刺さるのが分かった。

五年間、ずっと突き刺さっていたものが、今はじめて、重さとして感じられた。


-----


廊下に出た。


絨毯の感触は、来た時と同じだった。沈んで、戻る。沈んで、戻る。


少し先の柱の陰に、人影があった。

腰に剣を下げていた。今朝は、下げていた。


「ロティス嬢」


役名で、私を呼んだ。アーセル殿は周囲に視線を走らせてから、すれ違う一瞬だけ、声を落とした。


「君の決断を、俺は支持する」


それだけ言って、彼は反対側へ歩き去った。


私は、振り返らなかった。

振り返らなかったから、自分の目に何が起きているかを、自分で確かめずに済んだ。


歩いた。歩き続けた。廊下の終わりまで歩いた。階段を降りた。中庭に出た。中庭の噴水の水音が耳に入って、私はそこでようやく立ち止まった。


頬が、濡れていた。


──ああ。


「支持する」と、誰かに言われたことが、五年間、無かった。

正確には、覚えていなかった。

たぶん、無かった。


ハンカチを出して、顔を押さえた。

誰も、見ていなかった。


──……見られたかったの?


自分にそう問いかけて、答えに困った。困ったまま、噴水の縁に少しだけ寄りかかった。背中に石の冷たさが伝わって、ようやく、息ができた。


-----


◇ ◇ ◇


長官室には、既にロティス嬢の姿はなかった。


ハインケル・フォン・グランツは、机の引き出しを開けた。一番上の段、奥の隠し蓋の下に、署名済みの書類が一束、収まっている。


『悪役令嬢職任期延長同意書 ── 任期:終身』


下の名前の欄には、まだ何も書かれていない。あとはロティスの署名だけが入る予定だった。


書類を取り上げ、燭台に近づけた。


炎が紙の端に触れ、青く縁取られたあと、橙色に裾を広げていく。三十年やってきた。神殿庁の制度運営を、誰よりも長く、誰よりも深く、誰よりも上手く。五年で辞めるという娘は、これまでにいなかった。


「規定、ね」


低く呟いた。


灰になった紙片を、指でつまんで、燭台の受け皿に落とす。


「規定で勝ったつもりか」


呟きは、誰にも聞かれなかった。

そのつもりだった。


「次の手は、もう打ってある」


燭台の炎が、ゆっくりと立ち直った。

朝の光は、まだ高くなっていなかった。

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