第1話 明日、君を斬りたくない
蝋燭の芯が、しゅっと音を立てて短くなった。
机の上には明日の段取り書。台本という言葉は神殿庁では使わない。「次第書」と呼ぶ。中身は同じだ。誰がどこに立ち、誰が何を言い、誰がどう倒れるか。それを五年やってきた。
最後のページの最後の行に、私の役の最後の台詞が記されている。
> 「我が物語、ここに終わる」
声に出して読んでみる。
読めない。声が、出ない。
──変だな。今朝までは普通に出たのに。
ペンを置いた。羽根の先がくるりと回って、机の角で止まる。窓の外は王都の灯りも疎らで、聖堂の鐘がもうじき夜半を打つ頃合いだった。眠った方がいい。明日は朝から白粉を塗られ、ドレスに押し込まれ、台に乗せられ、剣で斬られる役目がある。
役目。ええ、役目。
私はそれを五年間、立派に務めてきたのだ。
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風が動いた。
正確に言えば、空気の温度がわずかに下がった。窓の閂を確かめたばかりだったから、気のせいだと思った。気のせいではなかった。
「──ロティス」
低い声が呼んだ。
椅子から立ち上がる前に、窓枠の外側に黒い影が見えた。三階だ。普通は誰も来ない。普通でない人間なら、来る。
「アーセル殿」
私は窓を開けた。立ち姿の整った青年が、夜の冷たさを連れて室内に降りる。剣を腰に下げていない。それを見て、少しだけ肩の力が抜けた。明日のための練習に来たわけではないらしい。
「お引き取りください。明日に障ります」
聞こえないふりをするように、彼は床に膝をついた。
両膝。
頭は伏せていない。私の目を、まっすぐに見ていた。
「明日、君を斬りたくない」
蝋燭が、揺れた。
私は、表情を動かさなかった。動かさない訓練を五年してきた。ただ、心臓だけが勝手に一拍跳ねたのは、訓練の外側にあった。
「……勇者殿」と、私は呼んだ。彼の名ではなく、役名で。「夜更けの戯言は困ります」
「戯言じゃない」
「では、明日の役作りでしょうか」
冷たい声が出た。よかった。声は出るらしい。ただ自分の台詞は読めないのに、彼を突き放す台詞はちゃんと出る。便利な喉だ、と思った。
アーセルは膝をついたまま、首を横に振った。
「君は知ってるか。俺の加護のことを」
「ええ。剣の腕が常人の数倍に。──そういうことになっています」
「半分本当で、半分嘘だ」
蝋燭の芯が、また短くなる音を立てた。
「俺の加護は、人の本心が見える。嘘は嘘、本当は本当として、こう──輪郭で見える」
そう言って、彼は自分の目元を指で軽く叩いた。子どものような仕草だった。武人の手ではなく、鍛冶屋の手だった。指の節が太くて、爪の付け根に古い傷がある。
「だから、知ってる」
「……何を」
「君が、五年間、嫌々やってたこと」
──ああ。
それは、地の底から湧いた相槌だった。声には出さなかった。出したら何かが終わると思った。
私は微笑んだ。微笑むのは得意だ。鏡の前で何百回も練習したから、今はもう、笑顔の筋肉だけで動く。
「ご想像にお任せします」
「想像じゃない。見えてた」
「では、見間違いです」
「ロティス」
呼ばれた。
役名ではなく、名前で呼ばれた。
私はその瞬間、自分の喉のどこかで、堰のようなものが軋む音を聞いた。たぶん錯覚だ。たぶん、錯覚であってほしい。
「俺は二年前、勇者選定の場で君を見た」と、彼は言った。「神殿庁の長官が君の耳元に何か囁いて、君の目が、一瞬だけ──嫌だ、って光ったんだ。誰も気づかなかった。俺だけが見てた」
それは、覚えていなかった。
二年前の選定式は出席義務だった。新しい勇者の顔を覚えるための儀礼で、私はいつも通りに微笑んで、いつも通りに役柄を全うして、いつも通りに帰った。長官に何を言われたかも、もう思い出せない。覚えていないのだ。覚えていないことを、彼は覚えていた。
「だから明日、君を斬らない」
「斬らないと、物語が終わりません」
「物語のために君が死ぬほうが、俺はおかしいと思う」
死なない。儀礼で防御魔法がかかる。私はそう言いかけて、口を閉じた。
言っても、彼の輪郭はそれを嘘と見抜くだろう。
長官に渡された次第書には、防御魔法の発動順序が記してある。私はそれを五年で何度も見た。何度も見たから、二年目あたりで気づいていた。あの順序では、防御は形だけになる。
知っていて、私は黙っていた。
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──知っていて、黙っていた。
それを、彼は知っていた、ということになる。
膝をついた青年の肩が、わずかに震えていた。怒っていた。私のために怒っていた。誰かが私のために怒るところを、五年間、見たことがなかった。
「お引き取りください」と、もう一度言った。
声が、ほんの少し、訛った。
私は素早く言い直した。
「お引き取りください、勇者殿。私は、私の仕事をいたします」
アーセルは長く息を吐いた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「分かった」と、彼は言った。「分かったけど、ひとつだけ言わせてくれ」
「……どうぞ」
「君が、明日、どっちを選んでも、俺は君のために動く」
それだけ言って、彼は窓を越えた。
足音は、しなかった。
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蝋燭が消えた。
油が切れたのか、芯が燃え尽きたのか、それとも私の手元が動いて指で潰したのか、よく覚えていない。気がついたら部屋は真っ暗で、私は机の引き出しを開けていた。
一番下の段。鍵付きの、古い引き出し。
鍵を開ける手が、自分のものではないみたいに動いた。
中には、紙が一枚。
──辞職願。
書きかけのまま、三年寝かせていた。書いた日の自分が、どんな顔をしていたか思い出せない。たぶん泣いていたのだろう。インクが、文字の途中で滲んでいる。
ペンを取った。
最後の一行に、今夜の日付を書いた。
その下に、自分の名前を書いた。
ロティス・フォン・エヴァガルド。
書き終えてから、初めて気づいた。
五年ぶりに、自分の名前を、自分のために書いた。
蝋燭はもう、いらなかった。
窓の外で、夜半の鐘が鳴り始めていた。
明日、私は──私の仕事を、辞めようと思う。




