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その声だけ

世界はぼやけていくのに、あいつだけははっきりしていた。

目が覚めた瞬間、

世界が水の底みたいに揺れていた。


音が遠い。

視界がぼやける。

体が重い。


(……やばい)


布団から起き上がるだけで息が乱れる。

制服に袖を通す手が震える。

指先の感覚が薄い。

歩くたびに、床の音が一拍遅れて耳に届く。



教室の扉を開けた瞬間――


「おはよう」


悠の声がした。近いはずなのに、遠い。


いつも通りの、軽い声。

なのに、鹿の耳には水越しみたいに遅れて届く。


「……」


「おーい」


「ん、あぁ……」


返事が遅れた。

自分でも分かるくらいに。


悠は首を傾げる。


「鹿、ちょっと遅いね」


その言い方が、

“気にしていない”のか

“分かっていて言っている”のか

判断できない。


鹿は目を逸らす。


胸のざわつきが、

昨日よりもずっと強い。




遠い。

水の底から響いてくるみたいに。


「……」


「……」


「だからここは……」


(何にも入ってこない……)


黒板を叩く音も、

チョークの擦れる音も、


「……」


(なんでだ……)


先生の口が動いているのに、

意味が頭に入ってこない。


「……く……」


(浮いてる……)


体が浮いているみたいだ。

椅子に座っている感覚すら薄い。



「ろく!」


「!?」


急に音が戻った。

耳の奥が痛いほどはっきり。


「おい、無視か?」


「え……」


自分の声が、自分の声じゃない。


先生は眉をひそめる。


「最近どうした、大丈夫か」


答えようとするけど、

喉がうまく動かない。

     


視界の端で、悠がこちらを見ている。


「鹿、顔色悪いよ」


その声だけが、

妙にクリアに聞こえた。




昼休みのチャイムが鳴ったはずなのに、

鹿には“音”として届かなかった。


ただ、周りが席を立つ気配だけが遅れて伝わる。


「鹿、ご飯食べよ?」


その声だけが、

水の膜を破るみたいにクリアに響いた。




「……もうそんな時間……か……」


自分の声が、自分の耳に届くまでワンテンポ遅れる。


(……なんでだ

 なんで悠の声だけ……)


机の上の弁当を開ける。

匂いが刺さる。

胃が、拒絶する。


箸を持つ手が震える。


一口入れた瞬間、

味がしない。

味が……消えていく。


喉が閉じる。

飲み込めない。


悠は鹿の様子をじっと見ている。

心配でも、驚きでもない。

ただ“観察”しているような目。


「鹿、食べないの?」


「……食ってる……」


自分でも分かるくらいの嘘。


悠は首を傾げる。


「じゃあ、食べてる鹿はどこ?」


柘榴の実を開ける。

赤い粒だけは、まだ食べられる。


でも、足りない。


喉の奥が熱い。

胃が空っぽで痛い。


悠は鹿の手元を見て、

いつもの調子で言う。


「いつもより早いね」


その声だけが、

やけに鮮明で、

やけに近い。


世界がぼやけていくのに、

悠だけがはっきりしている。




胸の奥がざわつく。

胃がひっくり返るような感覚。


(……ダメだ……

 ダメだダメだ……気持ち悪い……)


一口入れようとするたびに、

喉が拒絶する。


でも、食べないと――

胸の奥の“空洞”が広がっていく。


箸が皿の上でカタカタと鳴る。

自分の手じゃないみたいに震えている。


悠は鹿の横で、

いつも通りの声で言う。


「鹿、食べないの?」


その声だけが、

世界の中で唯一はっきり聞こえる。


胸の奥のざわつきは、

“食べないともっと悪化する”と訴えてくる。


胸の奥の空洞は、

広がっていく。


「お弁当って難しいね」


その声だけが、

やけに近い。




「鹿、大丈夫?」


鹿は返事をしようとするけど、

喉がうまく動かない。


「……」


悠は鹿の顔をじっと見つめる。


「……」


「……大丈夫……」


言葉は出た。

でも、自分の声が自分の耳に届くまで

一瞬の“遅れ”がある。


悠はゆっくりと首を傾ける。


「鹿、こっちみて」


その声だけが、

世界の中で唯一はっきり聞こえる。


鹿は反射的に顔を上げる。

視界が揺れる。

教室のざわめきは遠いのに、

悠の声だけが真っ直ぐ届く。


悠は鹿の目を覗き込む。

距離が近い。

近すぎる。


でも鹿は、

その距離を“避けられない”。


「……やっぱり、変だよ」


その言い方は優しいのに、

どこか“温度”がない。


鹿の胸の奥が、

ぎゅっと締めつけられる。


悠は、

ただ静かに見つめている。




ノートを開いた。

開いた瞬間、胸の奥がざわっと揺れる。


ページいっぱいに広がっているのは、

自分の字のはずなのに――


ぐちゃぐちゃで、

線が暴れていて、

何を書いたのかまったく分からない。


(……なんだこれ……)


文字の形は見える。

でも意味が頭に入ってこない。


読もうとすると、

視界がにじむ。

胸がむかつく。


(……読めねぇ……

 俺の字なのに……)


ページをめくる。

どのページも同じだった。


書いた記憶がない。

書いた理由も思い出せない。


(……ずっと……

 最近ずっと……

 気持ち悪い……)


頭の奥が重い。

ノートの文字が、

読めない。


(……俺……

 本当に……大丈夫か……?)


手が震える。

ページを押さえる指先に力が入らない。


視界の端で、悠がこちらを見ている。

何も映していないみたいな目で、こっちを見ている


(……俺にとって、悠って——)




「……何書いてるの?」


「……」


悠は少しだけ首を傾ける。


「うーん……」


その“考えているふり”みたいな声だけが、

やけに鮮明に耳に届く。


「……」


胸の奥が重い。

気持ち悪さがずっと続いている。

今日だけじゃない。

最近ずっと。


悠は鹿の沈黙を見つめたまま、

ふっと息を吸う。


そして――


「鹿、帰ろっか」


鹿は顔を上げる。


「……まだ昼だぞ……」


悠は瞬きもせずに言う。


「いや……帰ろ」


その声は優しい



(……なんで……

 なんでそんな言い方……)


でも、反射で返事が出そうになる。


喉が勝手に動く。

体が勝手に立ち上がりそうになる。


悠は鹿の目をまっすぐ見て、

もう一度、静かに言う。


「帰ろ、鹿」


いつの間にか、歩いていた。


「鹿」


声だけが、はっきり聞こえる。

今日は、鹿といっしょに帰れました。楽しかったです。

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