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昨日の俺がいない

昨日のことが、少しだけ曖昧です。

でも、まあ問題はないと思います。


始業式。

今日に限って寝坊した。


アラームの音は、聞こえていた気がする。

止めた記憶はないのに、止まっていた。


意識が、水の底みたいに重い。

体が動かないまま、時間だけが進んでいた。


(……やばい)


時計を見た瞬間、心臓が跳ねる。


(走らないと間に合わない……)


頭はまだぼんやりしている。

視界の端が、わずかに揺れていた。


(……昨日、何してたっけ)


思い出そうとして、やめる。


(まあいい。遅刻のほうがまずい)


靴を突っかけて家を飛び出す。


——今日くらいは、普通に過ごせるはずだ。




何かがおかしい。


いや――校門はいつも通りだった。

生徒の声も、廊下のざわめきも、

聞き慣れたはずの音ばかりだ。


なのに、足だけが少し遅れる。


(……なんだこれ)


掴めないまま、

鹿は遅刻ギリギリで教室に滑り込んだ。


朝礼が終わると、


先生「鹿、ちょっと来なさい。職員室」


ざわっと空気が揺れる。


鹿は何も言わず、廊下に出た。


職員室の前で、先生が振り返る。


先生「昨日……なんで来なかった?」


(……昨日?)


言葉が、そのまま頭に沈む。


(来てない……?)


一瞬、はっきりと否定しようとして――止まる。


(……いや、来てた)


悠が来て、

テレビを見て、

帰って――


(……それ、いつだ)


記憶の順番が、ゆっくりずれていく。


昨日のはずのものが、

どこにも置き場を見つけられない。


鹿「……昨日……?」


自分の声が、少し遅れて耳に届いた。


先生は眉をひそめる。


先生「体調悪かったのか?連絡もなかったぞ」


返事が出ない。


(……思い出せないんじゃない)


喉の奥が、じわっと重くなる。


(……思い出す場所が、ない)


職員室のざわめきが遠くなる。


鹿は、ふと気づいた。


(……昨日の“俺”が、いない)




先生「鹿? 大丈夫か?」


鹿「あ……えーっと……」


先生「いや……お前、あんまり休まないだろ」


そのあとの会話は、

ほとんど耳に入ってこなかった。


気づけば、席に戻っていた。


椅子に座った瞬間。


悠「鹿、おはよう」


鹿「……うん」


横を見る。


いつも通りの顔。

何も知らないみたいな顔。


悠「夏休みどこか行った?」


鹿「いや……」


悠「僕はね――」


言葉が、普通に続いていく。


昨日の話は出ない。

欠席のことも、何も。


(……聞かないのか)


鹿は、少しだけ待つ。


でも――


悠はただ、昨日見たテレビの話を始めた。


「リポーターがさ――」


(……違う)


昨日は、家に来て――


(……来たよな)


記憶が引っかかる。


でも、悠は何も言わない。


まるで――


最初から“そんな昨日はなかった”みたいに。


鹿「……なあ」


悠「ん?」


鹿は一瞬だけ迷う。


聞けば、何かがはっきりする気がした。


でも――


(……いいか)


鹿「……なんでもない」


悠は、少しだけ首を傾げてから、また笑った。


「鹿、今日も一緒に帰ろうね」


その言葉だけが、やけに自然だった。




悠「鹿、危ない」


腕を引っ張られた。


その瞬間、

足の裏の感覚が消えた。


(……え?)


一歩踏み出したはずの地面が、

少しだけ遠い。


体が遅れてついてくる。


悠「眠い?」


鹿「いや……」


悠「危ないよ。赤なのに渡ったら」


信号を見る。

確かに赤だ。


でも――


(……いつ渡ろうとした?)


足元を見る。


一歩、前に出ている。


出した記憶は、ない。


気づけば――


もう住宅街の道を歩いていた。


(……は?)


学校の前じゃない。


さっきまで、職員室にいて、

教室に戻って、悠と――


(……どこまで、本当だ)


考えた瞬間、頭の奥がぼやける。


思い出しかけた形が、

そのまま崩れていく。


(……なんだよ、これ)


胸の奥がざわつく。


でも、そのざわつきも――


長くは続かない。


(……まあ、いいか)


言いかけて、やめる。


喉の奥に、さっきから何かが引っかかっている。


悠は隣で歩いている。


一定の歩幅で、

一定の速さで。


鹿の方を見もせずに、


「鹿、今日も柘榴買うの?」




そういえば――

腹が、減っていた。


気づいた瞬間、

それだけが残った。


(……何か食わないと)


何を、とは出てこない。


ただ、


(……足りない)


胸の奥が、じわじわと広がる。


呼吸が浅くなる。


喉の奥が、少しだけ乾く。


(……何が食いたいんだ)


考えても、浮かばない。


肉でも、甘いものでもない。


柘榴でも――違う気がする。


なのに、


(食え)


言葉だけが、頭の中で浮かぶ。


(食え)


(食え)


(食え)


悠「鹿」


鹿「はっ……」


肩がびくっと跳ねた。


悠「道こっちだよ」


周りを見る。


知らない道ではない。

でも、来た覚えがない。


(……またか)


さっきまでの道が思い出せない。


曲がった記憶も、歩いた感覚もない。


(……気持ち悪い)


腹の奥と、頭の奥が、同時にざわつく。


歩いているのに、

足の裏の感覚が薄い。


地面が、少し遠い。


悠は隣で歩いている。


変わらない歩幅で、

変わらない速さで。


悠「鹿、急がなくていいよ。まだ明るいし」




悠「昨日…」


鹿「……」


悠「なんで休んだの?」


その声が落ちた瞬間、

鹿は顔を上げた。


悠の瞳が、赤い。


夕日の反射かもしれない。

でも――


鹿には、違って見えた。


そこに、自分がいる。


映っているんじゃない。

“向こう側”にいる。


閉じ込められているみたいに。


逃げられない。


視線からも、

この会話からも。


鹿「……」


喉が乾く。

何か言わなきゃいけないのに、言葉が出てこない。


(昨日……)


思い出そうとした瞬間、


――スカッ、と


何かが抜け落ちた。


鹿「……わかんねぇ」


自分でも驚くくらい、軽い声だった。


悠は少しだけ首を傾げる。


悠「そっか」


それだけだった。


責めるでもなく、

気にするでもなく、

ただ“受け入れる”。


鹿の中で、何かがまたずれる。


(……なんで、それでいいんだよ)


普通なら聞くだろ。

おかしいって思うだろ。


なのに――


悠「鹿、帰ろ」


何もなかったみたいに言う。


鹿は少しだけ立ち止まる。


(……おかしいのは、どっちだ)


自分か。

悠か。

それとも――


全部か。


胸の奥の空洞が、じわっと広がる。


(腹、減ってる……)


さっきより、強い。


(何か食べないと……)


でも、


何を食べればいいのか分からない。


柘榴じゃ足りない。

何を食べても、埋まらない。


悠が一歩前を歩く。


振り返らない。


でも――


置いていかれる感じもしない。


鹿は、その背中を見る。


(……なんでだ)


怖いはずなのに。


気持ち悪いはずなのに。


離れようと思えば、離れられるはずなのに。


足が、動く。


悠の後を追う。


夕焼けが長く影を伸ばす。


悠の影が前を歩いている。


鹿は、その後ろを歩く。


(……近い)


距離は変わらないはずなのに、

妙に近く感じる。


足を速める。


少しだけ、間が詰まる。


それでも――


追いつけない。


(……あれ)


もう一歩、踏み出す。


その瞬間、


自分の影が、

どこにあるのか分からなくなった。


このまま読んでいただきありがとうございます。

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