ここ浅いよ
たぶん、普通の夏の一日。
ただ、少しだけ深いだけで。
長期休みは嫌いだ。
課題が多いし、時間があると逆に何もできなくなる。
鹿は机に向かって、一文字だけ書いては手を止め、
ぼーっと窓の外の蝉の声を聞いていた。
(……暑い。うるさい。やる気出ねぇ)
そんなとき。
ピンポーン
インターホンが鳴る。
鹿は眉をひそめる。
(宅配か…?)
椅子から立ち上がり、玄関へ向かう。
ドアを開けると――
「おはよう」
「……」
悠は当たり前みたいに立っていた。
制服じゃなく、ゆるい私服。
手ぶら。
表情はいつも通り。
「あそぼ」
言葉を失う。
「……なんでいるんだよ」
「鹿の家、近いから」
「理由になってねぇよ…」
悠は少しだけ首を傾げる。
「暇でしょ」
「……まぁ、暇だけどよ」
「じゃあ遊ぼ」
「……俺、課題あるんだけど」
「終わるまで待つよ」
「いや、そういう問題じゃなくて…」
悠は鹿の家の中を覗き込むようにして、
ぽつりと言う。
「鹿が一人だと、静かすぎるから」
蝉の声が遠くなる。
「……勝手に入んなよ」
「うん。勝手に入らないよ」
と言いながら、
靴を脱いで上がり込んでくる。
「入ってんじゃねぇか…!」
悠はにこっと笑う。
「いいかなって」
鹿は頭を抱えた。
鹿の部屋は静かだ。
扇風機が弱く回っているだけで、外の蝉の声が遠く聞こえる。
机には課題プリント。
一文字書いては止まり、またぼーっとする。
その横で――
悠が正座して鹿を見ている。
「……」
「……」
(なんでこいつに見られながら課題しなくちゃいけないんだ…?
いや、なんで来たんだよそもそも…)
悠は鹿の手元をじっと見つめている。
邪魔するわけでもなく、話しかけるわけでもなく、
ただ“そこにいる”。
「鹿、字きれいだね」
「褒めなくていいから黙ってろ」
「うん。黙る」
と言いながら、
鹿の横にぴたっと座る。
「……近いんだけど」
「見やすいから」
「見るなよ…」
悠は少しだけ首を傾げる。
「まだ?」
「……なんだお前」
「まだかなーって」
「……」
悠はにこっと笑う。
ため息をつき、
プリントに視線を戻す。
蝉の声が響く。
課題は机の上に広がったまま。
鹿はもう集中できず、鉛筆を置いた。
悠は鹿の部屋の床に座って、
扇風機の風を受けながら鹿を見ている。
「終わったら川行こ」
鹿はプリントを見て、ため息をつく。
「…もういいよ行こ」
悠は瞬きする。
「課題は?」
「あとでもできる」
悠は首を傾げる。
「川行くのも後でも行けるよ?」
鹿は思わず顔をしかめた。
「お前は行きたいのか行きたくないのかどっちだよ…」
悠は少し考えてから、
ぽつりと答える。
「鹿が行きたいなら行く」
蝉の声が五月蝿い。
「……なんだよそれ」
「鹿が行かないなら、別に行かなくてもいいよ」
「……」
「でも、鹿が行くなら行きたい」
鹿は頭を掻く。
「……お前の基準、全部俺なんだよな」
悠はにこっと笑う。
「うん。鹿が普通だから」
「なんだそれ」
「僕から見た普通だよ」
鹿は言葉を失う。
悠は立ち上がって、鹿の腕を軽く引く。
「行こ。川、涼しいよ」
「……」
川に着いた瞬間、鹿はまず水面を眺めた。
日差しが反射して眩しい。
風は少し涼しいけど、蝉の声は相変わらずうるさい。
鹿が靴を脱ぐか迷っているその横で――
悠がなんの躊躇もなく川に入っていく。
本当に、ためらいゼロ。
「……は?」
鹿は一瞬、見間違えたのかと思った。
だって悠は、靴のまま、服のまま、
そのまま水に足を入れていた。
「冷たい…」
その声は、まるで氷水に触れた猫みたいに小さくて、
でもどこか嬉しそう。
鹿は額に手を当てる。
「お前さぁ……なんで入ってんだよ」
悠は振り返る。
悠「川だから!」
「理由になってねぇよ…」
悠は水の中で足を揺らしながら、
鹿の方へ手を伸ばす。
「鹿も入る?」
「入らねぇよ」
悠は少しだけ首を傾げる。
「鹿と来たから入りたくなった」
鹿は言葉に詰まる。
蝉の声が一瞬だけ遠くなる。
「……」
「うん!楽しい!」
「なんだお前」
悠はにこっと笑う。
「悠だよ」
鹿はため息をつきながら、
川の水面をつま先で軽く触った。
冷たい。
悠は川の中で、足を揺らしながら水の冷たさを楽しんでいた。
鹿は岸に立ったまま、腕を組んでその姿を見ている。
「……」
(何してんだろうか…
こんなことしたいんじゃない…
ただ家でなんもしないで、いつもの…
いやいい…もう今日はいい…)
悠は水の中から手を振る。
「鹿もおいでよー」
鹿はため息をつく。
「…服濡れてるぞ」
悠は自分の服を見下ろして、
本当に今気づいたみたいに瞬きをした。
「…? そうだね」
「親はなんかいわねぇのかよ」
悠は少しだけ首を傾げて、
まるで天気の話をするみたいな声で言った。
「親は居ないよ」
蝉の声が一瞬だけ止まったように感じた。
(……こーゆーところだ
こーゆーことをなんの躊躇もなく
ぬるっと言ってくるところ
嫌いだ)
嫌い――
でも、胸の奥がざわつくのは、
その“嫌い”が本当なのかわかんないから。
悠は水の中で、鹿を見上げて笑う。
「鹿は来ないの?」
川の水面をつま先で軽く蹴った。
「……行くよ。行けばいいんだろ」
悠は嬉しそうでもなく、
でも確かに安心したように目を細めた。
鹿は川に足を入れた。
水は思ったより冷たくて、足首がきゅっと締まる。
悠はその反応を見て、ぱっと笑った。
「どう?」
「冷たい」
「あはは!」
悠の笑い声は、蝉の声より軽くて、
夏の空気の中で妙に響いた。
鹿(内心)
(……こいつのこと何にも知らない)
好きなものも、嫌いなものも、
どこで生まれて、どう育って、
何を考えて笑ってるのかも。
(いや、知らなくてもいい…
別に知りたいわけじゃねぇし…)
でも――
(知らないと……なんだか……)
川の水より冷たい感覚が、
背中をゆっくり這い上がってくる。
(あ、怖いんだ
俺はこいつを知らないことが
怖い)
悠は水をすくって、鹿に軽くかけた。
「鹿、冷たくて気持ちいいね」
鹿は反射的に身を逸らす
「やめろって…!」
悠は笑う。
その笑顔は柔らかいのに、
どこか“奥が見えない”。
鹿はその笑顔を見て、
胸のざわつきがさらに強くなる。
知らない。
分からない。
掴めない。
でも、離れられない。
冷たさが心地よくて、
さっきまでのざわつきが少しだけ薄れていく。
悠は少し離れた場所で水を揺らしながら笑っていた。
「鹿、こっち浅いよー」
鹿はため息をつきながら、
少しだけ足を進めた。
その瞬間――
足が、なかった。
踏み出したはずの場所が、
急に“空洞”みたいに消えた。
「……え?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
次の瞬間、
体がふっと沈む。
水が胸まで、
そして肩まで迫る。
流れが思ったより強い。
足が底を探すのに、
何も触れない。
鹿
(……は?
なんで?
ここ浅かっただろ…
なんで急に…)
水が耳に入り、
世界の音が遠くなる。
悠の声だけが、
ぼんやりと響いた。
「鹿!」
鹿は手を伸ばそうとするけど、
流れがそれを引っ張る。
焦りより先に、
妙な冷静さが来た。
鹿
(あぁ…
川ってこういう沈み方するんだ…
海じゃないのに…
なんでこんなに流れ強いんだよ…)
胸が苦しいわけじゃない。
でも、
底がないという事実が怖い。
(……俺、
こいつのこと知らないのが怖いとか言ってたけど…
それどころじゃねぇな…)
水面が揺れて、
光が歪む。
岸に引き上げられた鹿は、
濡れた服のまま地面に手をついた。
肺がうまく動かない。
喉が焼けるみたいに痛い。
「ガッハ…ゴッホ…ゴホ…!」
水が喉の奥から逆流して、
咳が止まらない。
視界が揺れる中、
悠が鹿の肩に手を置いた。
「危ないよ」
その声は、
まるで転んだ友達に声をかけるみたいに軽い。
鹿は咳き込みながら顔を上げる。
「……っは……っ、はぁ……」
悠は鹿の顔を覗き込んで、
ほんの少しだけ眉を下げた。
「ダメじゃん、そっち行ったら」
その言い方は叱るでもなく、
心配しているようでもなく、
ただ“事実を述べただけ”みたいな温度。
そして――
また微笑む。
柔らかいのに、
何も見えない微笑み。
奥が空洞みたいで、
どこにも感情が触れない。
背中がぞわっと震えた。
(……なんで笑ってんだよ
なんでそんな顔できるんだよ
俺、死ぬかと思ったのに)
胸の奥が冷たくなる。
(こいつの笑顔、
ほんとに何考えてるかわかんねぇ)
悠は鹿の濡れた前髪を指でどけて、
いつもの声で言う。
「鹿、生きててよかった」
その言葉は優しいのに、
なぜか“温度”がない。
「帰ろっか、危ないし」




