隣の普通
お腹が空いた
だめだ。
治らない。
慢性的なぼやけ。
視界の端がずっと揺れている。
胃が捩れるような空腹。
でも食べられない。
食べても満たされない。
耳は水の中みたいに詰まって、
遠くの音が全部くぐもって聞こえる。
(……医者は……頼れない……)
(頼れる医者が……いない……)
「おはよう」
その声だけが、
はっきりと脳に響いた。
世界の輪郭が、少しだけ戻る。
「……」
「今日は暑いね」
「……あぁ……」
悠が覗き込む。
距離が近い。
でも——
嫌じゃない。
「……大丈夫?」
「……」
声が出ない。
喉が動かない。
言葉が形にならない。
でも、
悠の声だけは、
世界の中で唯一、
鮮明に届く。
(……これが、一番楽だ)
他の音はいらない。
他の言葉も、いらない。
この声だけ聞こえていれば、
それでいい。
味がしない。
ぼんやりとか、薄いとかじゃない。
全く、何も。
舌に乗せても、
温度と食感だけが残って、
味という情報がどこにもない。
(……なんだよ、これ……)
胃は捩れるように空腹を訴えているのに、
食べても満たされない。
満たされないどころか、
“違う”と拒否されているみたいだ。
(……これは……食べ物じゃない……?)
その考えが浮かんだ瞬間、
頭の奥がじわっと重くなる。
(……違う……)
自分で否定したのか、
否定させられたのか、分からない。
そのとき。
「美味しい?」
「……」
「美味しくなさそうだね」
「……」
悠は少しだけ首を傾げる。
「それ、違うんだと思う」
「……は?」
「うまく言えないけど」
少し考えてから、
「鹿の“普通”じゃない感じ」
「……何言ってんだお前……」
腹が減った。
腹が減った。
腹が減った。
視界の端で、
何かが動いた。
肌。
温度。
脈がある場所。
(……)
一瞬だけ…
「……っ」
(違う違う違う違う)
(人間だろ)
(普通じゃない)
でも、
喉が鳴る。
「鹿、帰ろ」
「……」
「お腹空いた?」
「……」
「食べたいよね」
「……」
悠は、
まるで天気の話をするみたいな声で続ける。
「食べちゃおっか……」
その言葉が落ちた瞬間、
鹿の胸の奥で
何かが“カチッ”と噛み合った。
空腹が、
喉の奥までせり上がる。
(……やめろ……
そんな言葉……
聞きたくない……)
でも——
拒否できない。
世界がぼやけていく。
輪郭が崩れる。
音が遠ざかる。
その中で、
悠の声だけが
異様なほど近い。
「鹿、ほら」
“何か”が差し出される。
でも、それは——
形として認識できない。
見えているのに、
理解できない。
(……違う……)
(食べ物じゃない)
(普通じゃない)
なのに、
腹が減った。
腹が減った。
腹が減った。
思考が、
その言葉に塗り潰されていく。
悠の声が落ちる。
「大丈夫」
少しだけ、間。
「鹿の普通でいいんだよ」
その瞬間、
胸のざわつきが
すっと引いた。
静かになる。
鹿の手が、動く。
触れたのか、
触れかけたのか、
もう、分からない。
ただ、
“何か”に指先が沈んだ感覚だけが残る。
音が戻る。
教室のざわめき。
チャイム。
日常。
でも——
鹿の手だけが、
“何かを覚えている”。
「鹿?」
鹿は、ゆっくり顔を上げる。
そして一言。
「……わかった」
喉が、わずかに鳴った。
足りない




