第7話 初刀②
「……あああ!」
呆然としたまま宙を見つめていた俺は、反射的に首筋をつかんだ。首を撫でて確かめる。だが体は何ともなかった。
傷はない。血も出ていない。指先に触れるのは何の変哲もない肌だけだった。
「今の……また……」
「レオンさん!!!」
エレインの声が聞こえた。
考えるより先に体が動いた。
背後から魔獣が飛び出してきたが、俺はすでに身を投げ出していた。魔獣の牙がついさっきまで俺の首があった場所に食らいつき、ガチンッと虚空を噛んだ。
風が頬をかすめた。
心臓が狂ったように跳ねていた。息が荒い。首筋が無傷だとわかっているのに手を離せなかった。
体が……いや、俺の魂が覚えていた。首筋を襲った痛みが今も生々しく残っている。塞がれた息も、肉を引き裂いた牙も、指の間を流れた血も鮮明だった。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
傷はない。
確かに死んだ。
間違いなく死んだのに……心臓の鼓動が、俺は生きているのだと突きつけてくる。
やがて意識が澄み渡り、感覚が戻ってきた。強張っていた体に再び血が巡り始めたようだった。
地面に手をついて体勢を立て直すと、エレインが駆け寄ってきた。
「レオンさん! 大丈夫ですか!?」
だが魔獣の視線はすでに彼女へと向いていた。
「ふざけんな! てめえの相手は俺だ!」
地面を転がりながら剣を振るうと、青いマナが刃を伝って流れた。
──!!
肉を切り裂く音が響いた。魔獣の脇腹から血が飛び散ったが、致命傷には至らなかった。魔獣はすぐさま体を翻して突進してくる。
『速い……!』
避けられないと思った瞬間、剣を握り直して歯を食いしばった。
もう一度噛まれたら死ぬ。こいつにもう一度殺される。
頭では理解していた。理解しているつもりだった。それなのに体がついてこない。
怖かった。
恐ろしかった。
今すぐ逃げ出したかった。
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
……
「レオンさん!」
……!!
エレインの声に、ようやく我に返った。
「ああああ……!」
俺は剣を斜めに構えた。
魔獣の前脚が剣にぶつかり、ガンッ!と骨と鉄が激突する音が響いた。衝撃が腕を駆け上がり、膝が折れそうになったが、何とか踏みとどまる。
剣をひねって魔獣の顎を押し返し、体を横にずらした。
ずらした……!
ずらしたんだ!!!
『なのにどうして……!』
もう体が動かない。動こうとしない。動いてくれない。
くそっ。くそっ。くそっ。くそっ。くそっ。
魔獣が迫ってくる。何事もなかったかのように迫ってくる。歯をむき出しにして、赤い目で俺を射抜こうとしている。
くそっ。くそっ。くそっ。くそっ。くそっ。
「くそおおおっ!!!!!」
──!!
その瞬間、炎が押し寄せてきた。
小さな火の玉なんかじゃない。
熱気が森を吹き抜けた。炎が魔獣を飲み込み、黒煙を噴き上げる。毛の焦げる鼻を刺すような臭いがした。
魔獣は悲鳴のような咆哮を上げたあと、やがて動かなくなった。
俺は呆然とその光景を見つめていた。
「レオンさん!」
エレインが駆け寄ってきた。
彼女の声を聞いた瞬間、足から力が抜け、その場にへたり込んだ。剣を握る手が震えていた。
「大丈夫ですか?」
エレインは今にも泣き出しそうな顔で手を差し伸べた。
「……強いな」
「え?」
「いや。君のことだよ」
俺は荒い息を吐いた。
「そんな魔法が使えるのに、さっきはどうして使えなかったんだ?」
エレインは顔を赤くして杖を抱きしめた。
「そっ……そのときは怖くて……マナをうまく集められなかったんです」
「……ああ。そうか……」
俺もさっきは何もできなかった。
いや、正確には一度死んだ。
首を噛みちぎられた感覚が蘇り、俺は再び反射的に首筋に触れた。傷はない。それなのに指先に血がついているような気がした。
意識がはっきりしてくると、胃の中がむかついた。
「うっ……!」
木に手をついてえずいた。
「レオンさん!? 大丈夫ですか!?」
「大丈……うっ! ちょっと待って……! 少しだけ……!」
何も出てこなかった。胃がひっくり返るように痛み、口の中に唾液が溜まる。俺はしばらく俯いたままえずき続けた。
死ぬのはやっぱり恐ろしかった。
どれだけ回帰を経験しても、死に慣れることなんてない。むしろ記憶が残っているからこそ余計に怖かった。
ついさっき味わった苦痛が確かに起きた出来事なのだと、俺の体以外のすべてが知っているような気がした。
「……はあ」
口元を拭って、ゆっくりと腰を伸ばした。
「エレイン。怪我は?」
「私は大丈夫です。レオンさんは? 肩から血が……」
「このくらい平気だ」
「全然平気そうに見えませんけど……」
「じゃあ少しだけ平気じゃないってことにしよう」
無理やり笑ってみせた。
エレインは心配そうに近づいてきたが、それ以上は尋ねなかった。代わりに杖を握り直して周囲を警戒した。
その姿を見て、少し安心した。
少なくとも今は二人とも生きている。
だが、負傷した魔獣たちはまだ周囲に残っていた。
前脚を傷つけられた巨体の魔獣は、地面を引っかきながら立ち上がろうとしていた。もう一匹は俺たちを警戒するように周囲をうろついている。
「……エレイン。さっきの魔法をもう一度使えるか?」
「はい。でも……」
「それで十分だ」
息を整えて剣を構えた。
「俺が合図したら頼む」
エレインは頷いた。
俺はゆっくりと魔獣たちを観察した。傷を負っているからといって油断はできない。
ほんの少し前まで、俺はこいつらに首を噛みちぎられていた。今もその感覚が首筋にまとわりついて離れない。
だが今度はわかっていた。
奴らの動きも、俺が死んだ瞬間も。そして……俺がどうして動けなくなったのかも。
俺は一歩前に出て、魔獣が前脚で地面を蹴る瞬間を待った。
来る。
魔獣が牙をむき出しにして突進してきた。
──!!
横に身をひねった。爪が肩をかすめ、痛みが走ったが、今度はバランスを崩さなかった。
「今だ!」
「──『フローズン・ゲイル』!」
冷たい風が地面をなでた。パキパキッと氷が広がり、魔獣の前脚を捕らえる。魔獣は体をよじって抜け出そうとしたが、ほんの一瞬だけ動きが止まった。
その隙を逃さなかった。
セイント・ポールの青い筋が鮮明に浮かび上がる。
手首から肘へ。肘から肩へ。力を伝えていく。剣を振るった瞬間、マナが刃を伝って流れ、一筋の光を描いた。
今度はただ斬るだけでは終わらなかった。
剣先から伸びた青い気が、魔獣の傷口に深く食い込んだ。
「グルルルル──!!」
すぐさま後ろへ飛び退いた。魔獣が倒れ込み、もう一匹にぶつかった。
もつれ合う二匹に、エレインの炎が飛んでいく。
「──『フレイム・バースト』!」
「くっ……!」
腕で顔をかばい、熱気に耐えた。肌がひりつくほど熱い風が吹きつけてくる。
炎が収まったとき、魔獣たちはもう動かなくなっていた。
「……はあ。はあ……」
息が喉元までせり上がっていた。足も震えて、今すぐ地面に倒れ込みたかった。
それでも終わった。
今度こそ本当に終わったらしい。指先が痺れて、息をすることさえ苦しかった。
「……勝った」
ようやく俺は剣を下ろした。笑おうとしたが、顔がうまく動かなかった。
代わりに足から力が抜け、その場に座り込んだ。
「レオンさん!」
エレインが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか? どこを怪我したんですか? 血が……!」
「大丈夫だ。死んでないだろ」
「それは大丈夫って意味じゃありません!」
彼女は今にも泣き出しそうな顔で俺の傷を確かめた。
そこでようやく、自分がどれほどひどい有様なのか気づいた。
服は破れ、腕や肩には傷ができていた。剣を握る手は震えている。
そして首筋は無傷だった。
当然だ。
ついさっき死んだことなど、この世界では起きなかった出来事のように、俺の体には何の痕跡も残っていない。
「……レオンさん?」
「ああ。ごめん。ちょっと考え事をしてた」
そう言って首を振った。
今はこの問題を掘り下げている場合じゃない。
ただ一つだけ確かなことがあった。エレインが魔法を使ってくれなければ、俺たちは二人とも危なかっただろう。
そう。一人では勝てなかった戦いだった。
「エレイン。助けてくれてありがとう」
彼女はぱちぱちと瞬きをした。
「私こそです! レオンさんが前で戦ってくれたから……」
「いや。君がいなかったら、とっくに死んでた」
倒れた魔獣たちを見つめた。
「下級魔獣でも……やっぱり一人じゃ無理だったな」
一人でやり遂げたかった。強くなりたかった。
誰にも頼らず、誰かを失わずに済むくらい強い人間になりたかった。
だからこそ、その言葉を口にするには少しばかり勇気が必要だった。
「……帰ろう」
剣を鞘に収めようとして、手を止めた。
手が震えてうまく入らない。
「ちょっと待って……手が言うことを聞かないな」
エレインが近づいて鞘を支えてくれた。俺はゆっくりと剣を収めた。
「ありがとう」
「いえいえ。でも本当に無茶しすぎですよ」
「次からはもう少し気をつけないとな」
「絶対ですよ!」
彼女は真剣な顔で頷いた。
◇ ◇ ◇
魔獣たちをギルドまで運ぶのも一苦労だった。
森の端で古びた荷車を見つけたおかげで死骸を運ぶ手間は省けたが、傷ついた体で重い荷物を積むのは骨が折れた。
何度も手を止めて休まなければならなかったし、車輪が何かに引っかかって動かなくなるたびに二人で力を合わせて押さなければならなかった。
それでも何とかすべての魔獣を積み込むことができた。
俺は荷車の取っ手を握って道を歩いた。エレインは隣で杖を手に周囲を警戒している。
「レオンさんって本当にすごいですね」
「急にどうした?」
「魔獣たちがあんなに怖かったはずなのに、最後まで戦ったじゃないですか」
「……」
怖かった。
本当に怖かった。
死ぬ瞬間を思い出すだけで胃の中がむかついた。
さっきだって何度も逃げ出したくなった。俺がすごかったから戦えたわけじゃない。逃げられない瞬間があって、引き下がりたくない理由があっただけだ。
「……ただ運がよかっただけだよ。それに君が助けてくれただろ」
「それでも……」
「次は君が危険な目に遭う前に、もっと上手くやるよ」
エレインはしばらく俺を見つめてから、いたずらっぽく笑った。
「それってまた私と会うってことですか?」
「……え?」
思いがけない言葉に、俺は彼女を振り返った。
エレインはいたずらっぽい顔で俺を見上げていた。
「いやまあ……そういうことになるのか?」
「じゃあ次もよろしくお願いしますね。レオンさん!」
「ああ。よろしくな」
そう答えて笑ってみせた。
だが心の片隅には消えない感覚が残っていた。
『俺……確かにすぐに目を覚ましたよな……?』




