第6話 初刃①
森に足を踏み入れると、空気が変わった。
木々の葉の隙間から差し込む陽光が地面に斑模様を描き、湿った土の匂いが鼻先をかすめた。
穏やかな景色の中、俺は草むらをかき分けながらゆっくりと歩いていた。
あちこちに獣の足跡が残っていた。木の幹には鋭い爪痕が刻まれ、地面にはつい最近つけられたと思われる踏み跡も見える。
「近くに魔獣がいるな」
腰に差した剣を見下ろした。
新しく手に入れた剣を試す機会だ。果たしてどれほど役に立つのか、実際に確かめてみるしかない。
──!!!
森の静寂を破る音に、足が止まった。
「来ないで……!」
震える声に続いて、「グルル……」という低く荒々しい唸り声が響いた。
俺はすぐさま声のした方向へ駆け出した。
木々の間を抜けると、小さな空き地が現れた。そこでは、一人の少女が三匹の魔獣に取り囲まれていた。
狼と呼ぶには、あまりにも大きい。体格は成人男性に匹敵し、濃い灰色の毛並みの下では鍛え上げられた筋肉がうごめいていた。赤い瞳と剥き出しの牙からは、普通の獣とは比べものにならない威圧感が放たれている。
「こいつらが例の下級魔獣か……?」
視線を移し、魔獣たちに囲まれた少女を観察した。
長く伸びた薄紫色の髪は乱れ、ローブの袖には土がついていた。手には杖を握っているが、その先に灯ったかすかな炎は、すぐに消えてしまった。
魔法使いらしい。
だが、今は魔法を使う余裕すらなさそうだった。
剣を抜くと、刀身に青い光が走った。
「おい!」
魔獣たちの視線が一斉に俺へ向いた。
「三匹がかりで一人をいじめるなんて、ちょっと卑怯じゃないか?」
我ながら、格好よく登場できたと思った。
一撃で吹っ飛ばされるまでは……。
「ふぅ……!」
大きく息を吐き、最も近くにいた魔獣へと飛びかかった。
いつもどおり両手で剣を握り、腰を落として構える。相手は獣なのだから、動きも予測しやすいはずだ。
そう思っていた。
ガキンッ!
「……え?」
魔獣の前脚が剣を弾いた瞬間、衝撃が手首を伝って肩まで駆け上がった。剣を手放さずに済んだだけでも幸運だった。
だが、俺の体はその衝撃に耐えられなかった。
「がっ……!」
足が地面から浮いた。視界が一回転し、背中と脇腹が立て続けに地面へ叩きつけられた。
口の中に土が入り込んだ。肋骨が折れたかと思うほどの痛みが走った。
いや、本当に折れているのかもしれない。
肺から一気に空気が抜けた。息を吸おうとしても、胸が言うことを聞かない。
口を開けたまま喘いでいると、目の前の景色が揺らいだ。
「冒険者さん!」
少女の悲鳴が聞こえた。
歯を食いしばって体を起こそうとしたが、腕に力が入らなかった。
『何だよ、これ……?』
たった一度、ぶつかっただけなのに?
魔獣は無傷だった。
そいつは俺を一瞥すると、興味を失ったかのように再び少女へと顔を向けた。
その態度が、かえって屈辱的だった。
俺はセイント・ポールを見下ろした。
剣はまだ手の中にあった。刃にも傷一つない。間違いなく、いい剣だった。
セイント・ポールが衝撃を受け止めてくれたおかげで、大怪我をせずに済んだらしい。だが、それだけだった。
どれほど優れた剣でも、使い手が駄目なら何の意味もない。
「……くそっ」
呆れ果てて、笑いがこみ上げてきた。
バルトロスにやられてから、まだ二日しか経っていない。剣を手に入れたのだから、何かが変わると思っていたのに、現実はこの有様だった。
「こっちへ来てください! 早く!」
少女が駆け寄り、俺の腕を引っ張った。俺は呆然と彼女を見つめてから、どうにか立ち上がった。
「待って、君……」
「とにかく逃げましょう!」
彼女は俺の返事を待たずに走り出した。
背後から魔獣たちの足音が聞こえた。
枝をへし折り、草むらを踏み荒らす音が、どんどん近づいてくる。息が切れ、脇腹がずきずきと痛んだ。
何度も振り返りたくなったが、そのたびに少女が俺の腕を引っ張った。
どれほど走っただろう。
ようやく俺たちは、生い茂る木々の間に身を隠した。
俺は木に背を預け、その場に座り込んだ。息を吸うたびに胸が痛んだ。
「はぁ……はぁ……また死ぬかと思った」
「大丈夫ですか? どこか怪我を……」
少女が心配そうな顔で近づいてきた。
「何ともないよ。まあ、肋骨がちょっと折れた気はするけど」
「それ、全然大丈夫じゃないですよね……?」
「うん。大丈夫じゃないな」
口に出した途端、余計に痛くなった気がした。
俺は脇腹を慎重に押さえてみた。幸い、息もできないほどではなかった。
少なくとも、今すぐ死ぬことはなさそうだ。
しばらく荒い息を繰り返していた俺は、ようやく相手の顔をまともに見た。
「あ、そういえば、名乗ってもいなかったな」
少女がびくりと肩を震わせた。
杖をぎゅっと握り、周囲を警戒していた彼女は、少しためらってから口を開いた。
「私はエレインです。初級魔法使いをしています」
「レオン・アルベンだ。冒険者だよ」
「レオンさん……。ごめんなさい。私がちゃんと魔法を使えていれば……」
「どうして君が謝るんだ?」
俺は顔を上げた。
エレインは杖を抱きしめたまま、うつむいていた。指先はまだ震えている。
「俺が勝手に飛び込んだんだろ。君のせいじゃないよ」
「でも、私のせいで……」
「いや、本当に大丈夫だって。俺もあいつらがあんなに強いとは思わなかったし」
俺はため息をついた。
「それより、さっきの魔獣たち、何匹いるんだ?」
「私が見たのは三匹です。でも、森の奥からほかの鳴き声も聞こえました。もっといるかもしれません」
「そうか……」
一人じゃ無理だ。
認めたくはなかったが、今ので身をもって思い知らされた。
下級魔獣だからと侮っていい相手ではなかった。一匹すらまともに相手にできなかったのに、三匹。しかも、ほかにもいる可能性がある。
もちろん、依頼を達成するために命を捨てるつもりはなかった。
だからといって、このまま背を向けて逃げるのも気が引けた。何より、あの少女を再び一人きりにして立ち去りたくはなかった。
そのとき、エレインが杖を握り直した。
「私が時間を稼ぎます。炎であいつらの注意を引けば……」
「いや」
俺は首を振った。
「注意を引くのは俺がやる。君は後ろから魔法を使ってくれ」
「でも、レオンさんはさっき……」
「分かってる。一撃で吹っ飛ばされたな」
「い、いえ! そういう意味じゃなくて……」
「いいんだ。事実だろ」
俺は笑ってみせた。
「何かいい方法がありそうな気がするんだよな……」
そう口にしたものの、具体的な方法が思い浮かんでいたわけではなかった。
正面からぶつかれば負ける。それだけは確かだ。
なら、正面から戦わなければいい。
俺は森を見回した。木々、地面、木の根、草むら。目に入るものを一つずつ頭に刻み込んでいく。
エレインの魔法がどこまで通用するのか。俺がどこまで耐えられるのか。今、自分たちが持っている手札を考えた。
そのとき、エレインの首にかかったペンダントが目に留まった。
色あせたローブの隙間から、ひし形のペンダントが覗いていた。
中央にはめ込まれた青い宝石に日光が当たるたび、波紋のような光が広がっていた。
「それは……」
思わず手を伸ばした。
「きゃっ……!」
突然の動きに驚いたエレインが、びくりと身を縮めた。
指先がペンダントに触れる寸前だった。
しまった。
俺は慌てて手を引っ込めた。
「ごめん! いきなり手を伸ばして。なんだかそのペンダントが気になって、つい……」
エレインは高鳴る胸を落ち着かせるように、ペンダントをぎゅっと握りしめた。
少し顔を赤らめたものの、すぐに小さく首を振った。
「大丈夫です。私もびっくりしてしまって……」
「そのペンダント、トピカ鉱石だよな?」
「あ……! はい。そうです。ご存じなんですね」
「周囲のマナを吸収して、身につけた人に供給する魔石だろ。かなり高価なもののはずだけど」
「父がプレゼントしてくれたんです」
エレインは大切そうにペンダントを包み込んだ。
「父は強い魔法使いでした。数年前、大規模なダンジョン討伐に参加したんですけど……それ以来、連絡が途絶えてしまって」
「亡くなったという話は聞いていないのか?」
「はい。だから、私はまだ生きていると信じています」
彼女は一瞬、唇を噛んだ。それから、再び顔を上げた。
「私も強くなりたいんです。私の名前が広く知られるようになれば、父もどこかで私のことを知ってくれるかもしれません。そうしたら、いつか……また会えるんじゃないかって」
「……」
簡単には答えられなかった。
帰ってこない人を待つ気持ちが分かるなどとは言えない。それはあまりにも傲慢な言葉だろう。
ただ、彼女がなぜここにいるのか、少しだけ分かった気がした。
「だったら、なおさら生きて帰らないとな」
「え?」
「父親と再会する理由を作ってやらなきゃ。君がここで死んだら困るだろ」
エレインは俺を見つめ、それから小さく笑った。
「レオンさんもですよ」
「俺も?」
「はい。レオンさんも、生きて帰らなきゃ駄目です」
「……それは確かにそうだな」
誰かにそんなことを言われたのは、久しぶりだった。
死にたくはなかった。ただ、死ぬことよりも耐えられないものを避けるために動いているだけだった。
それでも、少なくとも今は、この少女を死なせたくないと思った。
「よし、作戦を立てよう」
俺は立ち上がり、ズボンについた土を払った。
「エレイン、君の魔法はどこまで使える?」
「魔法の強さによります。炎や冷気を放つ程度なら、あと何回か使えますけど、強力な魔法はマナをたくさん消費するので……」
「じゃあ、強力なのは一回くらいだと思っておけばいいか」
「はい。おそらく」
「よし。その一回は温存しておいてくれ。俺が合図したら、すぐに冷気を放ってくれ」
「でも、レオンさんが危なくなったら……」
「その前になんとかしてみるよ」
俺は剣を抜き、青い筋が走る刀身を確かめた。
頭に浮かんだ考えがうまくいくかどうかは分からない。そもそも、作戦と呼ぶには不十分で、いくつかの可能性をつなぎ合わせただけのものに近かった。
それでも、何もせずに死ぬわけにはいかない。
「今度はさっきみたいに、一撃で吹っ飛ばされないようにしないとな」
「私も全力を尽くします!」
俺たちは互いに顔を見合わせ、頷いた。
そして、森の外へと踏み出した。
◇ ◇ ◇
魔獣たちは、遠くへは行っていなかった。
奴らは空き地の周辺をうろつきながら、しきりに匂いを嗅いでいた。俺たちを見失ったとは思っていないらしい。
木々の間で赤い目が光るたびに、背筋がぞっとした。
俺は手にした剣を握り直した。
「準備はいいか?」
「……はい!」
「よし。俺が合図したら頼む」
そう言って、わざと木の枝を踏みつけた。
パキッ。
枝の折れる音が森に響き渡った。
同時に振り向いた三匹の魔獣の視線が、一斉に俺へと突き刺さる。
「グルルルル……」
「こっちだ、獣ども!」
剣を構え、そのまま駆け出した。
先頭にいるのは二匹。残る一匹は少し遅れて追いかけてくる。
三匹に一斉に襲いかかられたら終わりだ。そう考え、俺は木々の間を縫うように走りながら、必死に距離を取った。
「はぁっ、はぁっ……!」
息が切れてきた。
このままでは長くもたない。
「レオンさん! 右です!」
エレインの声に、反射的に体をひねった。ついさっきまで腕があった場所を牙がかすめ、服の裾が裂けた。
「くそっ!」
どうにか距離を取る。
正面からぶつかれば押し負ける。かといって逃げ続けるだけでは、いずれ追いつかれる。
そのとき、長く伸びた木の幹と、低く垂れ下がった枝が目に入った。
俺はベルトを外した。
「はあっ!」
魔獣が飛びかかってきた瞬間、ベルトを枝に引っかけて掴み、体をひねった。
ベルトが張り詰め、体が横へと引っ張られる。足が地面から離れた瞬間、木の幹を足場にして思い切り跳び上がった。
体が先頭の二匹の横へと抜ける。俺はベルトを手放し、枝を掴んでどうにか体を支えた。
爪がズボンの裾をかすめた。
「エレイン! 今だ!」
「はい!」
彼女が杖を高く掲げた。
首にかけたトピカ鉱石が青く輝き、宝石から伸びた光が彼女の指先へと流れ込んでいく。
「──『フローズン・ゲイル』!」
周囲の空気が一瞬で冷え込んだ。
エレインの短い詠唱とともに風が吹き荒れ、肌を刺すような冷気が地面をなぞるように走った。パキパキッと音を立てて、魔獣たちの足元が白く凍りつく。
先頭を走っていた二匹が滑った。爪が氷を引っかく不快な音が響く中、後ろを追っていた巨体の魔獣も慌てて爪を立てたが、体勢を崩して傾いた。
『今だ!』
俺は枝から手を離して飛び降りた。着地と同時に体を転がして衝撃を逃がし、セイント・ポールを片手で握りしめ、マナを集中させた。
いつもなら、ここで行き詰まっていたはずだ。
マナを引き出す感覚は分かっていた。だが、剣に流し込み、その流れを維持したまま振るうのはまったく別の話だった。少しでも集中が乱れれば、力が散ってしまう。
それなのに、今回は違った。
マナが剣身を流れていく感覚が、以前よりもはっきりと伝わってきた。無理やり押し込むのではなく、剣が流れを受け止めてくれているようだった。
「……おおっ!」
感心している暇はなかった。
身を低くし、巨大な魔獣の前脚を狙う。
「くらえええっ!」
青い閃光が走った。
剣身を流れるマナが伸びて刃の形を成し、魔獣の前脚を切り裂いていった。
血が飛び散った。魔獣は苦痛に満ちた咆哮を上げ、体をよじった。足を踏ん張れなくなった巨体が氷の上を滑り、倒れていた二匹にドンッと激突した。
三匹がもつれ合い、地面を転がった。
「やった……!」
俺は一歩下がり、剣を構え直した。
手は震えていた。息も荒い。それでも、剣を手放すことはなかった。
セイント・ポールは、確かに特別な剣だった。同じ力を使ったはずなのに、剣に乗る威力が違う。
今までうまく扱えなかった剣術が、初めて自分の手に馴染んだような感覚だった。
だが、喜ぶにはまだ早かった。
三匹のうち一匹は、衝突の衝撃に耐えられなかったのか、地面に倒れたまま起き上がらなかった。
しかし、巨大な魔獣は足を引きずりながらも、殺意に満ちた赤い目で俺を睨みつけていた。
「本当にしぶといな……!」
再び構えを取り、剣を向けた。
勝てる。
そうだ。
勝てるかもしれない。
そう思った瞬間だった。
「レオンさん!!!」
──!!!!!
振り返る間もなく、何かが背後から襲いかかってきた。首筋に鋭いものが食い込んだ。
「がっ……!」
痛い。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
俺の体に侵入してくる。冷たく鋭いものが、肉を突き破って入り込んでくる。
筋肉を引き裂き、骨を断ち、気道を押し潰すような感覚だった。何が起きているのか考える余裕すらなかった。
痛い。
痛い。
痛いんだよ、くそっ──。
何だよ、これ。痛いじゃないか。クソほど痛いじゃないか。
魔獣が俺の首に噛みついていた。
奴が頭を振るたびに、世界がひっくり返った。牙が肉に食い込む感覚が、嫌になるほどはっきりと伝わってくる。
首筋が引きちぎられそうだった。息を吸おうとしても、空気が入ってこない。
『やっぱり、もう一匹いたのか……!』
痛みで意識が遠のいていく。
いや。
むしろ、意識は鮮明になっていった。
生きたい。
死にたくない。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
『嫌だあああ!!!』
手にした剣を後ろへ突き刺した。狙いを定めることなどできなかった。ただ、このまま死ぬわけにはいかない。それだけだった。
『くそっ……!』
剣先が魔獣の頭を貫いた。
奴の体が震え、噛みついていた顎が緩んだ。俺は力なく地面へ落ちた。
首から血が溢れ出した。人間の体から、これほど大量の血が流れ出るものなのかと、今さらのように思い知った。
手で押さえても意味がなかった。熱い。指の隙間から、熱いものが流れ落ちていく。手のひらが滑った。力を込めても、血は止まらなかった。
エレインは真っ青な顔で立ち尽くしていた。
彼女の唇が動いている。何を言っているんだろう。
逃げろ。
『逃げろ』
そう伝えたかったのに、喉から出たのは「……うああ……」という、意味をなさない呻き声だけだった。
……。
手を伸ばした。
助けて……。
誰でもいいから。
頼むから……。
体から力が抜けていった。地面が傾いているような気がした。冷たい土の感触が頬に触れた。
ああ、死ぬんだ。
また。
また死ぬんだ。
やっぱり、死ぬ感覚には慣れない。
何十回死んでも、慣れることはない。
慣れたくもない。
嫌だ。
死にたくない。
「……いや……」
声が出なかった。
まだ、何もできていないのに。
俺は……。
……。




