第4話 取引
このあと、何をすればいいんだろう。
バルトロスに飛びかかったときは、何かしなければならないと思っていた。彼を恨んでいたし、責任を取らせたかった。どうにかして、俺が味わった苦しみを思い知らせてやりたかった。
だが、彼が去ってしまうと、何も残らなかった。
怒りも、復讐心も、向ける先を失った。そうした感情を支えていた力さえ、消えてしまったような気がした。
向かいに座る男は何も言わなかった。無理に慰めることも、いつまでも泣くなと急かすこともしない。ただ俺の前に座り、酒を傾けているだけだった。
その沈黙がありがたかった。同時に、耐えがたくもあった。
「……どうして、こんなに弱いんでしょうね」
声が漏れた。
「何十回も機会があったのに」
手のひらを開くと、そこには指輪が乗っていた。ついさっきまで強く握りしめていたせいで、手のひらには赤い跡が残っていた。
いっそ、こんな痕跡さえ残っていなければよかったのだろうか。
俺は首を振った。
いや、それは違う。
指輪が残っていることが嫌なわけじゃない。これを返す相手がもういないことが、嫌だった。
「それなのに、結局……誰一人、救えなかったんです」
男がジョッキを置いた。
「生き残った人間は、前に進まなきゃならん。死んだ人間に縛られて、そこに座り込んだままでいれば、生きている人間まで死んでいく。結局、何もかも無駄にすることになるんだ」
「……それだけやってきたからこそ……!」
思わず、ドンッ、とテーブルを叩いた。ジョッキが揺れ、中の酒がこぼれた。
「それだけやってきたから、余計につらいんじゃないですか!」
男が俺を見つめた。
その目を見た瞬間、ずっと押さえ込んでいた何かが切れた。
「あなたには分からないでしょう!」
声が裏返った。
「俺が何をしてきたのか、どれだけ試してきたのか、何も知らないでしょう! どれだけ必死になっても駄目だったんです。どうにかして変えようとしたんですよ! なのに、毎回同じだった! 俺が何をしようと、どこへ行こうと、結局みんな死んだんです!」
息が詰まった。それでも口を閉じることができなかった。
「今度こそ違うって思ったのに……今回も……!」
拳を握りしめる。
「俺が何もしてこなかったとでも思ってるんですか? 何もせず、ただ結果を待っていたとでも言うんですか! 何かが変わるかもしれない、今度こそ救えるかもしれないって……できることは全部やったんですよ!」
……。
「救いたかったんです……」
最後の言葉は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
俺はうつむいた。まともに息ができなかった。胸の奥に溜まっていたものを一気に吐き出したのに、何もすっきりしなかった。
むしろ、余計に惨めになった。
この人が何をしたというんだ。
俺をバルトロスから引き離し、酒場まで連れてきてくれた人だ。泣きたいなら泣いてもいいと、そう言ってくれた人でもある。
そんな人に、俺は一体何をしているんだ。
「す、すみません……。今、ちょっとまともな状態じゃなくて……」
ドンッ!
テーブルが大きく鳴った。
びくりとして顔を上げると、男が分厚い手のひらでテーブルを叩き、俺を睨みつけていた。酒場にいた何人かの客が、驚いてこちらを振り返った。
「おい! まずは息をしろ!」
俺は呆然と彼を見つめた。
「今すぐ答えを出せなんて、誰も言ってねえ! だから、まずは息をしろ!」
彼は俺の前に置かれたジョッキを脇へ押しやった。
「吸って。ゆっくり吐け」
言われたとおり、息を吸い込んだ。胸が痛かった。喉の奥がひりつき、涙のせいで視界までぼやけていた。
何度か呼吸を繰り返して、ようやく胸を締めつけていた息苦しさが少しだけ和らいだ。
男はそれを見届けてから手を引き、椅子の背もたれに体を預けた。
「……落ち着いたか?」
俺はぼんやりと彼を見つめ、頷いた。
「なら、謝るのはもういい。お前が何を経験したのかは知らんが、今すぐ答えを見つけられないってことくらいは分かる」
彼はこぼれた酒を手拭いで適当に拭いた。
「人間が抱えられるものにも限界がある。それを超えちまえば、まともに考えることすらできなくなる。だから、平気でもねえのに平気なふりをするな。余計に自分を苦しめるだけだ」
「……」
「ただ、今は何もできないからって、これから先もずっとそうだとは限らん。今とこれからは別の話だからな」
「……おじさんは、こんな状況でもそんなことが言えるんですね」
「俺も経験したことがあるからな」
彼はため息をつき、ジョッキに目を落とした。
「この村で店をやってたんだ。妻と娘がいてな。大したものを持っていたわけじゃないが、それなりにうまく暮らしていたと思う。幸せだったよ」
親指でジョッキの縁をなぞった。
「妻はずいぶん前に先立ってな。それからは娘と二人で暮らしていた。だが、今度は店が燃えちまって、娘も大怪我をした」
口元に苦い笑みが浮かんだ。
「命は助かった。だが、火傷がひどくてな。これからどれだけ苦しむことになるのか、どこまで回復できるのか、まだ分からないそうだ」
「……」
「みんな言うんだ。生きていてくれただけでもよかった、ってな。間違っちゃいない。俺だって、娘が生きていてくれたことがどれだけありがたいか、よく分かってる」
彼は残った酒を飲み干し、ため息を吐いた。
「だが、それで済ませられる話じゃないだろ。時々、腹が立つんだ。よかった、よかったと言ったところで、あの子がこれから味わう苦しみまで消えるわけじゃないからな」
彼は空になったジョッキを置いた。
「それでも、俺が代わりに苦しんでやることはできない。どれだけそうしたいと思ってもな」
俺は唇を噛んだ。彼の悲しみと自分の悲しみを比べることなんてできない。彼がどんな時間を生きてきたのか、俺は知らないし、彼もまた、俺が何を経験したのか知らない。
それでも、一つだけ分かる気がした。
起きてしまったことは取り戻せないと知ることと、その事実に耐えながら生きていくことは、まったく別のことなのだ。
「……それでも、前に進むべきだと思いますか?」
「そう言ったのは俺だが……」
彼はすぐには答えなかった。しばらくジョッキを見つめてから、口を開いた。
「だが、俺もまだよく分からん。明日、何をすればいいのかも分からないし、娘に会いに行ったらどんな顔をすればいいのかも分からん。父親として、あの子に何を言ってやればいいのかさえ分からなくなっちまった」
彼は苦笑した。
「それでも、行かなきゃならんだろうな。あの子が俺を待ってるんだから」
俺が守れなかった子は、俺を待ってはいない。どれだけ泣いたところで、もう戻ってこない。
そんなことは分かっていた。二十二回も同じ結末を目の当たりにしたのだから。
それでも、受け入れたくなかった。
「……俺には、そんなふうにはできそうにありません」
「そういうこともあるだろうさ。今はできないことを無理にやろうとすれば、余計にひどいことになる場合もある」
彼は腕を組んだ。
「だが、いつかは決めなきゃならん。このまま座り込んでいるのか、それとももう一度立ち上がるのか」
『もう一度、立ち上がる』
言葉にするのは簡単だ。だが、どうやって立ち上がればいいのか、どこへ向かえばいいのか、俺には分からなかった。
いや、本当に分からなかったのか?
回帰者を殺すと決めたのは、俺自身だった。
それだけは忘れていない。
二十二回も失敗を繰り返し、結局、誰一人救えなかった。なぜあんなことが起きたのか、何が間違っていたのか、それを突き止めなければならない。それが俺の決めた目標だった。
では、今の俺はどうだ。
バルトロスを前にして剣を抜くことすらできず、立ちすくんでしまった。彼が振り返っただけで息が詰まり、手は剣の柄に触れたまま動かなかった。結局、何もできずに彼が去っていくのを見送った。
あのときの感覚が、今も生々しく残っている。剣を抜かなければならない。それは確かに分かっていたのに、体はまるで他人のもののように動かなかった。
情けない。ただただ情けなかった。自分のあの姿が、吐き気がするほど嫌だった。
だからといって、バルトロスを怖がっていないふりもできない。あの瞬間に感じた恐怖は、今も体のどこかにこびりついていた。
そんなざまで、回帰者を殺すだって?
どうやって見つけるつもりだ?
見つけたところで、どうやって勝つ?
今みたいに目の前の相手に怯えて立ちすくんでいたら、結局、同じことが繰り返されるだけだ。誰かを失い、何もできず、後になって悔やむことになる。
……嫌だ。嫌だった。もう、あんな終わり方はしたくない。
あんな結末を迎えることだけは、もう耐えられなかった。
「……くそっ」
小さく悪態をつくと、男がこちらを見た。
「何か思いついたのか?」
「いえ、ただ……」
そうだ。
復讐したいという気持ちだけでは、何も変わらない。相手を憎むことと、相手を打ち倒すことはまったく別の話だった。
「……ところで、どうして俺を助けてくれたんですか?」
俺は話題を変えるように尋ねた。
「さっきもそうですし、バルトロスに食ってかかった俺を、わざわざ庇ってくれたじゃないですか。おじさんには何の得もないのに」
男はしばらく俺を見つめた。
「あいつが気に入らなかったからな」
「それだけですか?」
「それだけで十分じゃないか?」
彼は肩をすくめたが、すぐに笑みを消した。
「それに、お前があいつの前で言ってたことも気になってな」
「結局、何もできませんでした」
「見てたさ。あいつの前で身動き一つ取れなかったな。どれだけ怯えていたかも、ちゃんと見てた」
「……」
「それでも、飛びかかっただろ」
彼はふっと笑った。
「お前を大した奴だと思ってるなんて、一言も言ってない。強くなれる保証だってないさ。だが、少なくともお前は、あの出来事を黙って見過ごすことはできなかったんだろう」
彼は指先でテーブルを叩いた。
「怖くないから動けるってのは簡単だ。怖くても動くのは難しい。まあ、お前が次も同じことをできるかどうかは分からんがな」
俺はうつむいた。
慰められている気分ではなかった。むしろ、自分がどれほど無力だったのかを、改めて突きつけられたような気分だった。
それでも、その言葉が嫌ではなかった。
彼は俺が怯えていたことも、何もできなかったことも知っていた。それでも、俺を見捨てなかった。
「……おじさんは、バルトロスを恨んでいるんですか?」
俺の問いに、彼の手が止まった。
「バルトロスとロシュバーン家を」
男はしばらく答えなかった。
「……今回の火事がきっかけで恨むようになったわけじゃない。恨む理由なら、それ以前からいくらでもあったさ」
それ以上、彼は説明しなかった。だから俺も、無理に聞き出そうとはしなかった。昔から積もり積もった何かがあるのだろう。今回の一件は、その恨みを再び呼び起こしたにすぎないのかもしれない。
「それで、聞きたいんだが。お前はこれからどうしたい?」
俺は少し迷ってから、口を開いた。
「……強くなりたいです」
「それは分かった。どうしてだ?」
どうして?
俺はバルトロスの顔を思い浮かべた。冷たい眼差しと、俺に投げつけた言葉。そして何より、最後の瞬間まで俺は何もできなかった。
「バルトロスを……倒したいんです」
……。
「ロシュバーン家を、潰したいんです……!」
そんなことを口にする資格が自分にあるのかは分からない。今の俺には、ただの大言壮語にすぎないのかもしれない。
それでも、自分の気持ちだけははっきりしていた。
「そうか」
男は特に感慨を示すこともなかった。
彼は椅子の背もたれに体を預けたあと、すぐに前のめりになった。
「なら、俺がお前を手助けしてやろう」
「……え?」
「お前が強くなれるよう、手を貸してやる。いつかロシュバーン家を潰せるくらいにな」
あまりにも平然とした口調だったので、俺は一瞬、その言葉の意味を理解できなかった。
「どうして俺なんですか? 俺は下級冒険者です。マナだってまともに扱えないし、剣術に秀でているわけでもありません……バルトロスの前では、身動き一つ取れなかったんですよ……!」
「それはもう見たと言っただろう」
「それでも、ですか……?」
「それでも、お前があいつに飛びかかったのは事実だからな」
彼は肩をすくめた。
「もちろん、それだけで強くなれる保証はない。命を懸けたからといって、必ず強くなれるわけでもないし、恨みが深いからといって復讐を果たせるわけでもない」
「……」
「だが、何もしなければ何も変わらない。それだけは確かだろう」
彼は俺を英雄のように持ち上げることも、たいした気概があると褒めそやすこともしなかった。俺に足りないものがあるという事実を、覆い隠そうともしなかった。
ただ、可能性だけを残してくれた。
「……何を望んでいるんですか?」
「ロシュバーン家が潰れることだ」
迷いのない返答だった。
「俺の持っているものをすべて懸けるとは言えん。俺にも、まだ守らなきゃならんものがあるからな。だが、俺が持っている知識や手段で、お前を助けることはできる」
彼は手を差し出した。
「その代わり、自分の足で歩け。俺がお前の代わりに復讐してやるつもりはない。強くなるのも、あいつと向き合うのも、すべてお前自身の役目だ」
差し出された手を見つめた。
バルトロスが怖いという事実も、自分が弱いという事実も変わっていない。回帰者を見つけ出さなければならないという目標も、消えてはいなかった。
だが、今の俺に必要なのは、目標を増やすことではない。その目標に向かって進める人間になることだった。
俺はゆっくりと手を伸ばした。
「……分かりました」
硬いタコのできた手が、俺の手を強く握り返した。
「俺を、助けてください」
男がニヤリと笑った。
「よし。それでこそ若い奴の目だ。これで取引成立だな」
彼は手を離すと、すぐに立ち上がった。
「さあ、ついてこい。見せたいものがある」
「どこへ行くんですか?」
「俺の店だ」
彼は扉へ向かいながら答えた。
「燃えて、灰しか残ってないがな……はは、残骸でも見に行こうってわけさ」
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本作は自作の小説を翻訳したものです。
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