第3話 弱さ
怒りに任せた決闘の申し込みに、周囲がざわめいた。
「こいつ、頭がおかしいのか!?」
「バルトロス様に決闘を申し込むだと?」
「おい! もうやめておけ!」
だが、バルトロスは表情ひとつ変えなかった。
「お前と戦って、何が得られる?」
彼は淡々と言った。
「これは決闘ではなく、ただの殺戮だ。鬱陶しいドブネズミを駆除することを、決闘と呼ぶのか? 下級冒険者の怒りに、貴重な時間を浪費するつもりはない」
俺は剣の柄を握りしめた。
ドブネズミ。
その言葉が耳に突き刺さった。今すぐ剣を抜いて飛びかかりたかった。だが、手は動かなかった。
剣を抜けばどうなるか、わかっていたからだ。決闘どころか、まともに剣を振るうことさえできずに倒されるだろう。彼にとって、俺は相手にすらならない。
俺は下級冒険者で、彼は公爵家の剣騎士だ。努力や怒りだけでは埋められない隔たりがあった。
それでも、決闘を申し込んだ。
勝てると思ったからじゃない。復讐できると思ったからでもない。
このまま引き下がれば、自分が本当に何もできない人間だと認めることになる気がして、どうにかして彼を引き止めたかっただけだ。
「この村はすでに半分が焼失している。これ以上、生産力を失うのは損失だ。犠牲を増やす理由はない」
そう言って、彼は俺から視線を外し、馬車へと向かった。
その瞬間、俺の中で何かが切れた。
人が死んだ。家が燃えた。あの子が死んだ。
なのに、こいつがこの村について口にしたのは、生産力の話だった。
こいつにとって、すべては損得を計算するための対象にすぎないのだろうか。
俺があれほど大切に思っていたあの子の死さえ、ただの損失のひとつでしかないのだろうか。
もちろん、こいつにはこいつの事情があるのかもしれない。
だが、今この瞬間だけは、そんな事情を理解したくなかった。
「てめえは必ず……! この俺の手で……!」
身体が勝手に前へ飛び出した。
何を言おうとしたのかさえ、覚えていない。
殺してやると言ったのか。必ず復讐してやると言ったのか。
どちらにせよ、意味などなかった。こいつに近づくことすらできないとわかっていながら、それでも俺は動いた。
そのとき、バルトロスがゆっくりと振り返った。
「貴様の無礼は……先ほどから目に余るな」
青い瞳が俺を捉えた瞬間、息が詰まった。
死ぬ。死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
『死ぬ』
あの剣に貫かれて死ぬ。一歩でも近づけば、こいつは躊躇なく俺を斬り捨てる。
剣を抜く姿すら見ていないのに、俺の身体はすでにその結末を知っていた。
動けなかった。指先ひとつ動かせなかった。
怒りに煮えたぎっていた身体が、一瞬にして凍りついた。
吐き気がした。心臓も肺も、内臓という内臓をすべて吐き出してしまいそうだった。
あれほど守りたかったものを失ったというのに、目の前の男に怒りをぶつけることしかできなかった。
そして今は、その男に剣を向ける勇気すらなかった。
圧倒的な力の差。絶望的な無力感。
こいつを前にして、俺にできることなど何ひとつなかった。
そう思った瞬間、涙がこぼれた。
怒りからなのか、恐怖からなのか。それとも、自分があまりにも情けなかったからなのか。自分でもわからなかった。
歯を食いしばっても、震える顎を止めることができなかった。
そのときだった。
「おおっとっと! バルトロス様!」
野太い声とともに、広場の片隅から筋骨隆々の男が駆け寄ってきた。
太い腕に立派な口ひげ、禿げ上がった頭。見るからに豪快で、人懐っこそうな雰囲気を漂わせている男だった。
男は素早く俺の前に割って入り、バルトロスに頭を下げた。
「こいつは俺の弟分みたいなもんでしてね! 家が丸焼けになっちまって、正気じゃないんです! ははは、俺がきっちり言い聞かせておきますんで!」
男は俺の背中をバシンと叩き、無理やり笑顔を作った。
「いやあ、バルトロス様。驚かせちまいましたね! ご心配なく。すぐに頭を冷やさせますんで!」
バルトロスはしばらく男を見つめていた。
やがて、もはや相手にする価値もないと判断したのか、興味を失ったように視線を外し、馬車へと乗り込んだ。
再び、蹄の音が響き始めた。
馬車が広場を去ると、凍りついていた空気が少しずつ緩んでいった。人々のざわめきも戻ってきたが、俺の耳には何ひとつまともに入ってこなかった。
俺はその場にへたり込んだ。
手の中の指輪が震えていた。
いや、震えていたのは俺の手だったのかもしれない。
ついさっきまで燃え盛っていた怒りも、そのあとに襲ってきた恐怖も、今はもうどちらも残っていなかった。
男は大きくため息をつくと、俺の肩をつかんで立たせた。
「ほら、もういい。来い。酒でもかっ食らって、少しは気を紛らわせろ」
穏やかでありながら、豪快な声だった。
男は何があったのか、わざわざ尋ねようとはしなかった。ただ、ふらつく俺を支え、そのまま酒場へと連れていった。
◇ ◇ ◇
「村は焼けちまったが、外れにあるこの酒場だけは運よく燃えずに残ったみたいだな」
扉を閉めると、広場の喧騒が遠のき、薪のはぜる音だけが聞こえてきた。
そこでようやく、張り詰めていたものが切れたように、俺は力なくうつむいた。
目元から涙がこぼれ落ちた。
バルトロスの前では、どうにか声を張り上げることができた。
あいつが間違っていると、自分は悪くないのだと、必死に言い張りたかった。
男が俺の前に大きなジョッキをドンと置いた。
「泣きたいなら泣け。今はそれでいい」
揺れる酒を見つめた。
だが、口を開けばまた泣き出してしまいそうで、とても飲む気にはなれなかった。
男は向かいの席に腰を下ろし、しばらく何も言わなかった。
無理に笑顔を作っているその顔は、不思議と温かかった。
その温かさが、かえって耐えがたかった。
バルトロスは俺の話を聞こうともしなかった。
俺が何を経験したのか、説明することすらできなかったし、仮に説明できたとしても、理解してくれるとは思えなかった。
なのに、この男は何も尋ねなかった。
俺がなぜ泣いているのか、何を失ったのかも知らないくせに、ただ泣いてもいいと言ってくれた。
「でも……」
男は指先でテーブルをトントンと叩きながら、言葉を続けた。
「その先、どうするかは自分で決めなきゃな」
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