第10話 小さな泥棒②
「盗んだんじゃなくて……ちょっと借りただけなんだ!」
盗んでおいて、借りただって?
納得がいかなかった。だが、少女はもう引き下がらないとでもいうようにぎゅっと目を閉じ、震える声で続けた。
「お母さんがすごく具合が悪いんだ……お金が必要なんだよ! たくさん……!」
恐怖と不安に震える少女の顔をじっと見つめた。切羽詰まったその声は、少なくとも今、嘘をついているようには聞こえなかった。
「……いったい何があったんだ?」
できるだけ感情を抑えて尋ねると、少女はしばらくためらってから口を開いた。
「数日前……火事があったときからなんだ」
少女はローブの裾をぎゅっと握りしめた。
「お母さん、炎の中で煙を吸いすぎちゃって。それからは体もろくに動かせなくなって……仕事もできないんだ。家も壊れたのに、税金は払い続けろって言われて……もともと滞納してた分もあったんだけど、今回は……」
最後まで言葉を続けられず、少女はうつむいた。小さな手にどれほど力を込めているのか、指の関節が白くなっていた。
「だから……ボクが悪かったんだ。村の警備騎士たちが食べるものを、こっそり盗んだんだ。少しだけならバレないと思って……」
少女の声が震えた。
「お母さんを助けられるなら……何だって……!」
「……」
呼吸が荒くなった。何を言えばいいのか、すぐには思い浮かばなかった。
「それで、見つかったのか?」
少女は恐る恐る頷いた。
「数日後、あの人たちが家に来たんだ……。警備騎士だけじゃなかった。公爵家の騎士たちも一緒に……」
「……公爵家?」
思わず唇を強く噛みしめた。
少女の瞳が揺れた。その日のことを思い出すだけでも恐ろしいらしい。
「お母さんとボクを殴ったんだ……。何も悪いことをしていないお母さんまで……」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に忌々しい名前が浮かんだ。
『ロシュバーン公爵家……!』
小さな領地なら、男爵や騎士爵を持つ者が治めていることも多い。だが、公爵家ともなれば話は別だ。その名には、一つの領地にとどまらず、王国全体に影響を及ぼすほどの重みがあった。
そんな家の騎士たちが、村の住民を相手に何をしたというのか。
『クソ野郎どもが……!!』
少女は唇をきゅっと結んだ。目元に涙が浮かんでいた。
「滞納してる税金と、ボクが盗んだ食べ物の代金を払わなかったら……お母さんを奴隷として売り飛ばすって。お母さんの目の前で、そうやって笑ったんだ……」
話し終えた少女は、とうとうこらえきれずに泣き出した。どうにか涙を飲み込もうとしているようだったが、肩を震わせながら嗚咽が漏れていた。
「……!!」
胸の奥で何かが煮えたぎるようだった。少女の話を聞くうちに募っていた不快感は、今やはっきりとした怒りに変わっていた。
「……その借金はいくらなんだ?」
少女は鼻をすすりながら、どうにか答えた。
「銀貨……八十枚」
「……!?」
一瞬、言葉を失った。
『銀貨八十枚だと?』
冗談にもならない金額だった。銀貨一枚でさえ節約しなければならない人間に、八十枚だと。そもそも返せるはずがない。
それは借金を取り立てるための金額ではなく、相手を絶望させるために設定した金額も同然だった。
俺は拳を握りしめた。歯を食いしばると、こめかみまでズキズキと痛んだ。
「……あいつらは今、どこにいる?」
「……城壁のそば。いつもそこでお酒を飲んでるんだ。仕事もまともにしないで……ずっとそうなんだ」
俺は息を吐き、少女に手を差し出した。
「一緒に行こう」
「ダメ!」
少女は恐怖に顔をこわばらせ、慌てて首を横に振った。
「危ないよ! きっと、きっと殺されちゃう! あの人たちはそういう人たちなんだ。公爵家の名を後ろ盾にしてるから……誰も逆らえない……」
言葉が途切れた。少女はまだ何かを言おうと唇を動かしたが、結局それ以上は続けられなかった。
そんな少女をしばらく見つめてから、俺はそっとその頭に手を置いた。
「……!」
少女の体がびくりと跳ねた。反射的に肩をすくめ、俺を見上げた瞳に恐怖がよぎる。
俺は手を引かず、そのまま静かに待った。
やがて、少女の肩から少しずつ力が抜けていった。警戒してこわばっていた表情も、ゆっくりと和らいでいく。
「ずっと逃げてるだけじゃ、何も終わらない」
俺はきっぱりと言った。少なくとも、この件だけは引き下がるつもりがなかった。
少女はしばらく俺を見つめていた。不安そうな様子はまだ残っていたが、やがて小さく頷いた。
俺は少女と一緒に城壁へ向かって歩き出した。
……。
城壁の角に近づいた頃、騒がしい笑い声が聞こえてきた。
「おい、勤務中にこんなに飲んでていいのかよ?」
「いいんだって~。こんなところに誰が来るんだ? 心配すんなって! 誰も来やしねえよ!」
げらげらと笑う声に混じって、濃い酒の臭いが漂ってきた。
俺は少女と一緒に身を隠し、城壁の陰から様子をうかがった。そこでは二人の警備兵が座り、酒瓶を回し飲みしていた。
一人は体格がよく、鈍重そうな男。もう一人は痩せ型で、すでに酔いが回っているのか顔が真っ赤になっていた。
二人とも腰に剣を帯び、革手袋と鎖帷子を身につけていた。ベルトにはロシュバーン公爵家の紋章が刻まれている。
俺は身をかがめ、少女にささやいた。
「あいつらか?」
揺れていた瞳が二人の警備兵に向けられた。少女は唇を噛みしめたまま、頷いた。
「すぐ戻る」
俺は立ち上がり、腰を伸ばした。肩を軽く回して体をほぐすと、何事もなかったかのように二人へ向かって歩いていった。
「おい、そこの二人」
突然声をかけられ、警備兵たちはびくりとして顔を上げた。一瞬驚いた様子を見せたものの、俺の腰に下がった下級冒険者の身分証を確認すると、すぐに二人とも嘲笑を浮かべた。
「はっ! びっくりさせやがって」
体格のいい警備兵がぼやいた。
「ここは危ねえから、とっとと失せろ。駆け出し冒険者」
俺は答える代わりに、内ポケットから小さな銀貨袋を取り出した。
「払わなきゃならない金があると聞いた。これで手を打ってくれないか?」
「ほう!」
体格のいい男が素早く手を伸ばし、袋をひったくった。口を開いて銀貨を確かめた男の表情が固まった。やがて顔を歪め、怒鳴り声を上げた。
「おい! ふざけてんのか!?」
男は袋を振り回した。
「銀貨八十枚払えって言ったはずだぞ! これじゃ多く見積もっても十枚か十五枚ってとこじゃねえか! 俺たちをなめてんのか、この野郎!?」
男は袋を握りしめたまま、腰のあたりに手を伸ばした。
「受け取らないなら返してくれ」
その言葉に、警備兵の手が止まった。
「はっ! 公爵家の警備兵様と口を利いた記念に、こいつはもらっておいてやるよ」
体格のいい男がげらげら笑いながら首を振った。
そのとき、隣にいた痩せた男が俺を頭から足先まで眺め、視線を俺の手へと移した。
「その指輪……ずいぶん高そうじゃねえか~?」
男が口元を吊り上げた。
「それも置いていけば、今日は特別に見逃してやってもいいぜ」
何がそんなに面白いのか、二人の警備兵は顔を見合わせて大声で笑った。
「できれば喧嘩は避けたかったんだがな。特に……てめえらとは」
ふと、バルトロスの顔が脳裏をよぎった。村が焼かれたあの日から、あいつへの怒りを一瞬たりとも忘れたことはなかった。
俺は腰に差したセイント・ポールに手をかけた。指先が鞘に触れた瞬間、さっきまで笑い声を上げていた二人の表情から、少しずつ余裕が消えていった。
「お、おい……! まさかロシュバーン家に逆らおうなんて、馬鹿なことを考えてるんじゃねえだろうな?」
体格のいい男の額に汗が浮かんだ。
「はっ! 駆け出しのくせにいい度胸じゃねえか。少し頭を冷やさせてやる!」
痩せた男が嘲るように言い放ち、剣を抜いて素早く飛びかかってきた。
──!!
俺は瞬時にセイント・ポールを抜き放った。
二つの刃がぶつかり合い、鋭い金属音が城壁に響き渡った。
『速い……! だが、重くはない』
痩せた男の剣さばきは素早かった。だが、一撃に込められた力はそれほど強くない。俺は剣をしっかりと受け止め、体勢を保った。
しかし、安心している暇はなかった。
すでに体格のいい警備兵も、重い体を揺らしながら剣を抜こうとしていた。
「死にたくなきゃどけ、この野郎!」
『くそっ……二人を同時に相手にしなきゃならないのか』
首筋を冷たい汗が伝った。
「かかってこい……!」
二人の警備兵が互いに目配せした。
「ぶっ殺してやる!!」
「はっ!」
二人の刃が俺に向けられた。




