第9話 小さな泥棒①
『違う、違う……そんな目で見ないでくれ……諦めたわけじゃないんだ! 機会がなかっただけなんだ……これは俺の祝福なんかじゃない……』
◇ ◇ ◇
「はぁ……はぁ……!」
息が切れ、胸が苦しい。俺は荒い息を吐きながら、汗でびっしょりになった体を起こした。ベッドの上では布団がぐちゃぐちゃに乱れていた。
しばらく呼吸を整えてから、窓へと目を向けた。隙間から朝日が差し込んでいる。
「もう朝か……」
眠りにつく直前まであれこれ考え込んでいたせいで、夢見まで悪くなってしまったらしい。
『……悪夢か』
どんな夢だったのか、はっきりとは思い出せなかった。ただ、誰かの視線と、その相手に向かって必死に何かを否定していた感覚だけが、ぼんやりと残っていた。
俺は首を振って立ち上がった。
手早く身支度を整え、荷物をまとめて宿を出た。
◇ ◇ ◇
早朝の空気は爽やかだった。深く息を吸い込んでからゆっくりと吐き出すと、風が汗ばんだ肌を冷ましてくれた。
それでも、心のどこかがすっきりしなかった。
『散歩でもすれば、少しは気が晴れるか』
俺は特に行き先も決めず、村の道を歩き始めた。
地面には火事の煤がまだ残っていた。黒く焼け焦げた建物の周囲では、復旧作業が進められている。
道端からは子供たちの笑い声が聞こえてきた。
「ここまでおいでー!」
「待てー!」
子供たちが互いを追いかけながら走り回っていた。遅れた子が慌てて追いつこうとすると、先を走っていた子供たちがけらけらと笑った。
俺は歩みを緩め、その様子を眺めた。
『あれだけ大きな火事があったばかりなのに、あんなに元気なんだな……』
もちろん、子供だからといって、いつまでも悲しみに沈んでいるわけにはいかないだろう。それでも、ほんの少し前まで炎に包まれていた村であんな笑い声を聞くと、なんとも不思議な気分になった。
……それでも、悪い気はしなかった。
俺は再び歩き出した。仮設の露店に商品を並べる商人、重い荷物を運ぶ住民、崩れた屋根を修理する大工たち。誰もが、それぞれの日常を取り戻そうと懸命に働いていた。
「ここまでおいでー!」
「待てー!」
「……ん?」
……聞き覚えのある声だ。
足を止めて振り返ると、先ほど見かけた子供たちの姿が視界の端から消えていくところだった。長く伸びた影も、子供たちの笑い声も、すぐに遠ざかっていった。
『ちょっと待て……』
俺は周囲を見回した。
煤の残る建物も、道端に置かれた荷車も、遠くに見える露店も、見覚えがあった。
いや、見覚えがあるどころじゃない。
「……まさか」
危うく騙されるところだった。今、歩いてきた道じゃないか。
「……また回帰か」
なぜか今回は、朝から回帰が始まったらしい。
「あいつ、朝っぱらから何をやってるんだ……」
しばらくその場に立っていたが、いくら待っても周囲の景色は変わらなかった。
『……まあ、仕方ないか』
俺はため息をついた。
『今度は別の道を歩いてみるか』
どうせ同じ一日が繰り返されるのなら、わざわざ同じ道を歩く必要もない。そう考え、いつもは通らない路地へと進路を変えた。
酒場が立ち並ぶ路地には、朝から酒の臭いが充満していた。
ゴミの山を漁っていた浮浪者の一人が、物音に気づいたのか顔を上げた。
「おい……! ここは俺の縄張りだ! さっさと失せろ!」
男は半分据わった目で小さなナイフを握っていた。小ぶりではあるが、人を傷つけるには十分そうだった。
俺は反射的に両手を上げた。
「いや、俺は喧嘩するつもりなんて──」
「ここまでおいでー!」
「待てー!」
『……え?』
気がつくと、俺は最初に歩いていた道の真ん中に立っていた。
呆然としながら周囲を見回す。ついさっきまで浮浪者と向かい合っていたはずなのに、いつの間にか目の前には平和な村の道が広がっていた。
「……はぁ。思ったより面倒だな、これ……」
俺は額に手を当てた。
『何にせよ、この回帰は早く終わってほしいな……』
今度は別の方向へと歩き出した。
……。
遠くに高い塀と塔が見え始めた。貴族の屋敷だろう。普段ならわざわざ訪れようとも思わない場所だったが、今はほかにすることもなかった。
『今度は屋敷でも見物してみるか』
俺は塀に向かってゆっくりと歩いた。
「ここまでおいでー!」
「待てー!」
子供たちの声が聞こえた瞬間、俺は足を止めた。今度は驚きもしなかった。ただ、乾いた笑いが漏れた。
『寝言は寝て言え』
俺は顔を上げ、空を見た。雲がゆっくりと流れていた。
こんな平和な景色が何度も繰り返されているなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
『よし。どこまで続くか、試してやる』
俺はその場に立ち止まり、目を閉じた。風が頬を撫で、人々の足音や話し声が周囲を満たしていく。
このままじっと待っていれば、回帰が終わるかもしれない。少なくとも、何も分からないままうろうろするよりはマシだろう。
俺はため息をつき、その場に立ったまま待つことにした。
……。
タタタタタッ!
──!?
駆け寄ってくる足音に、俺は薄く目を開けた。
「泥棒よー!」
すぐ近くの果物の露店で、女性が腕を振り回しながら叫んでいた。周囲の人々の視線が一斉に同じ方向へと向けられる。
そこから、古びた茶色のローブを頭からすっぽりとかぶった小さな影が、全速力で駆けてきた。
「う、うわっ……!」
避ける間もなくぶつかられ、俺の足がよろめいた。
ローブをかぶった泥棒は素早く俺の懐に潜り込むと、反対側へとすり抜け、そのまま逃げ去ってしまった。
小柄な体に、短い歩幅──。
「子供……?」
俺は呆然と泥棒が消えた方向を見つめていたが、ふと胸元に違和感を覚えた。
──!!
慌てて内ポケットを探った。
「ない……ない……!!」
……なかった。
もう一度ポケットの中を探る。指先に触れるのは服の生地だけだった。
「ないって……! 銀貨の袋がない!」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
この前の討伐で手に入れた銀貨が入っている袋だ。これからの生活費にするつもりだったのに、さっきぶつかった瞬間に抜き取られたらしい。
「まさか、あのガキ……!」
俺は迷わず走り出した。
「おい! 待ちやがれ!」
泥棒は小さな体を活かして人混みをすり抜け、路地や通りを駆け抜けていった。
『なんでこんなに速いんだ……!』
しばらく追いかけていると、大きな酒場の近くまでたどり着いた。そいつは振り返る余裕もないのか、慌てて路地へと飛び込んだ。
見覚えのある路地だった。
その瞬間、嫌な予感が頭をよぎった。
『待て……ここは』
まさか、と思い終わるより先に、鋭い悲鳴が響き渡った。
「うわあああっ!」
慌てて路地に飛び込むと、予想していた光景が目の前に広がっていた。
ゴミの山の前で、ふらついていた浮浪者が小さな泥棒の行く手を塞いでいた。
酒に溺れて焦点の合わない目。周囲に漂う鼻を突く酒の臭い……。このまま大人しく通してくれるはずがない。
「おい、ガキ……ここは俺の縄張りだ……」
浮浪者はよろめきながら泥棒に近づいていった。
「なんだ……そ、それ……手に持ってるもんは!」
手に握られた銀貨の袋に気づいたのか、男は声を荒らげた。
「こっちに……よこせ!!」
浮浪者は古びた外套の中から小さなナイフを取り出した。
泥棒は戸惑った様子で後ずさった。やがて地面の砂をつかむと、浮浪者の目に向かって投げつけた。
「ぐっ……このクソガキが!?」
浮浪者は目をこすりながらよろめいた。泥棒はその隙に逃げようとしたが、浮浪者の手は予想以上に速かった。
そいつは泥棒の襟首をがっしりとつかんだ。
「う……うわああ……!」
小さな悲鳴が上がった。
浮浪者は泥棒のローブを乱暴につかんだ。そいつは逃れようともがいたが、逆に体を後ろへと乱暴に引きずられた。
ローブが脱げ、その下に隠されていた金色の髪があらわになった。
短く切りそろえられた金髪のボブヘア。
日の光が差し込む路地の中で、その髪がかすかに輝いていた。
『女の子……?』
浮浪者はしばらく少女を見つめていたが、やがて鼻で笑った。
「なんだ……女か? まあ、どうでもいい。そいつをこっちによこせ!」
少女は必死にもがいて抵抗したが、浮浪者はびくともしなかった。男の腕に振り回された少女の体が、そのまま壁に叩きつけられた。
「うっ……!」
少女の唇が切れ、赤い血がにじんだ。
「黙れ!」
浮浪者がナイフを高く振り上げた瞬間──。
──!!
俺はすかさず男の腹を蹴り飛ばした。浮浪者の体が宙で半回転し、鉄製のゴミ箱に激しく叩きつけられた。
鈍い衝撃音とともにゴミ箱が地面を転がり、路地にけたたましい音が響き渡った。浮浪者はうめき声を漏らしながら、ゴミの山へと突っ込んだ。
「う……うぐっ……」
男がもう起き上がれないことを確認してから、俺はようやく少女の手首をつかんだ。
「ほら、行くぞ」
俺は少女を浮浪者から遠ざけてから、手を差し出した。
「それと……その袋を返してくれ」
手を伸ばすと、少女はびくりと身を震わせた。しばらくためらったあと、手に握っていた袋を差し出してきた。
幸い、銀貨はそのまま入っていた。
『……はぁ。なくしたかと思った』
安堵の息をつこうとした、そのとき。少女の目に涙が浮かび始めた。
「ひっ……ぐすっ……」
やがて少女は、こらえていた涙を一気にあふれさせた。
「ううっ……うわああ……」
「ちょ、ちょっと!」
俺はただ袋を取り返そうとしただけなのに、目の前で泣き出したのは小さな子供だった。
「待て、泣くな!……大丈夫だ。もう安全だから」
俺はどうしていいか分からず、少女をなだめようとしたが、少女はなかなか泣き止まなかった。肩を震わせながらいつまでも泣き続け、俺はその隣で気まずく立ち尽くすしかなかった。
……。
何分ほど経っただろうか。
少女はようやく泣き止み、乱れた呼吸を整え始めた。目元は赤く腫れ、切れた唇にはまだ血の跡が残っていた。
俺は少しためらってから、慎重に尋ねた。
「……どうして盗みなんかしたんだ?」
「……」
少女は震える指先でローブの裾を握りしめた。しばらくこちらの様子をうかがっていたが、やがておずおずと口を開いた。
「……ボクは盗んでなんかない」
……。
「は?」




