【第八章】君に届ける、最後の旋律
音楽は、失ったものを取り戻すためだけにあるのではない。
傷ついた心。
届かなかった夢。
言葉にできない想い。
そのすべてを、音に変えることができる。
蓮は、もう一度ピアノと向き合い、自分だけの旋律を探し始める。
それは過去の自分へ戻るための音ではない。
今、この瞬間を大切にするための、二人だけの音楽だった。
夏の終わりが、少しずつ近づいていた。
蝉の声はまだ響いている。
太陽もまだ眩しい。
けれど。
どこかで季節が変わり始めていることを、僕は感じていた。
「最近、音楽室にいる時間増えたね」
星がピアノの横で言った。
「そうかな」
「そうだよ」
星は笑う。
「昔の蓮くんに戻ったみたい」
その言葉に、僕は首を横に振った。
「違う」
「え?」
「昔の俺じゃない」
鍵盤を見る。
事故の前の自分。
全国大会を目指していた自分。
何でもできると思っていた頃の自分。
もう、そこには戻れない。
でも。
「今の俺だから弾ける音がある」
そう言うと、星は嬉しそうに笑った。
「やっと気づいたね」
「……偉そうだな」
「幼馴染みだから」
いつもの答え。
でも、その言葉を聞ける時間が、どれだけ大切なのか。
今の僕には分かっていた。
⸻
僕は一つの曲を作っていた。
名前はまだない。
楽譜には、何度も書き直した跡が残っている。
最初は完璧な曲を作ろうとしていた。
昔の自分を超えるような。
誰かに認められるような。
でも、途中で気づいた。
違う。
僕が作りたいものは、そんなものじゃない。
「星」
「ん?」
「この曲、聴いてほしい」
「完成したの?」
「まだ途中」
「じゃあ、最初の観客だ」
星は嬉しそうに椅子へ座った。
僕は深呼吸をする。
右手には、まだ少し痛みがある。
でも。
もう怖くなかった。
鍵盤に指を置く。
一音目。
静かな音が、音楽室に広がる。
優しい旋律。
夏の日差し。
病院の中庭。
二人で作った秘密のカレンダー。
全部が音になっていく。
演奏が終わる。
静かな時間。
「……どうだった?」
恐る恐る聞く。
星は答えなかった。
ただ。
目に涙を浮かべていた。
「え、ちょっと」
「ごめん」
星は笑いながら涙を拭う。
「嬉しかった」
「そんな泣くほど?」
「うん」
星は楽譜を見る。
「だって」
「これは、蓮くんの曲だから」
その言葉に胸が熱くなった。
「俺の?」
「そう」
星は頷く。
「昔の蓮くんじゃなくて」
「今の蓮くんの音」
その言葉は、ずっと欲しかったものだった。
誰かに言ってほしかった。
失ったものだけが、自分の価値じゃないと。
⸻
数日後。
星は僕に一冊のノートを渡した。
「何これ」
「7月91日の日記」
ページを開く。
そこには、二人で過ごした日々が書かれていた。
7月32日。
一緒にピアノを弾いた日。
7月40日。
海へ行った日。
7月50日。
新しい曲を作り始めた日。
「全部書いてたのか」
「忘れたくなかったから」
星は笑う。
「時間ってさ、消えていくものだから」
「だから残すの」
ページの最後。
まだ何も書かれていない場所があった。
「ここは?」
聞くと、星は少しだけ笑った。
「最後の日」
胸が痛んだ。
「そんな書き方するなよ」
「ごめん」
星は少し困ったように笑った。
「でもね」
「最後があるから、今を大事にできるんだよ」
僕はノートを閉じた。
そして決めた。
この曲を完成させる。
星が最後に聴く曲じゃない。
星と一緒に作った、僕たちの曲にする。
夏の終わりまで。
残された時間が尽きるまで。
僕は何度でも弾く。
君がくれた、この夏のために。
第八章まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、蓮が本当の意味で音楽と向き合い始める章でした。
事故によって失ったものばかりを見ていた蓮ですが、星との時間を通して、「失った過去」ではなく「今の自分だからこそ生み出せるもの」に気づいていきます。
星へ届けるために作る曲。
それはただの一曲ではなく、二人が過ごしてきた夏そのものなのかもしれません。
「7月91日」という存在しない日々も、少しずつ二人にとって確かな意味を持ち始めています。
残された時間の中で、二人が何を残し、何を伝えるのか。
物語はいよいよ終盤へ向かいます。
最後まで、蓮と星の夏を見届けていただけたら嬉しいです。
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次章もよろしくお願いいたします。




