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「7月91日」  作者: S


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【第三章】失われた音と、残された楽譜

失ったものは、もう戻らない。


そう思っていた。


けれど、過去を取り戻すことができなくても、新しい音を奏でることはできる。


傷ついた心と動かなくなった指。

もう一度ピアノに向き合うために、蓮は小さな一歩を踏み出す。


そして、星が作る「存在しない日々」は、少しずつ二人だけの大切な時間になっていく。


これは、止まっていた少年の時間が、再び動き始める物語。

夏の日差しが、音楽室の床を白く照らしていた。


あの日から、僕は少しずつピアノに触れるようになった。


最初は、一音鳴らすだけで精一杯だった。


右手に力を入れると痛みが走る。


思い通りに動かない指を見るたび、事故の日の記憶が蘇った。


――もう前みたいには弾けない。


医師の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。


「また難しい顔してる」


背後から声がして、僕は振り返った。


星がいつものように点滴スタンドを押しながら立っていた。


「人の顔を見て第一声がそれかよ」


「だって、本当に難しい顔してるから」


星は僕の隣に座り、ピアノを見る。


「今日は何を弾くの?」


「何も」


「嘘」


「……」


「蓮くん、最近ピアノを見る時間が長くなった」


図星だった。


自分でも気づいていた。


怖い。


でも、嫌いになったわけじゃない。


本当は、まだ音楽が好きだった。


「これ」


星がカバンから一冊の楽譜を取り出した。


「何だよ、それ」


「蓮くんの曲」


「……」


見覚えがあった。


全国大会で弾く予定だった曲。


事故に遭った日に、最後まで練習していた曲だった。


「なんで持ってるんだよ」


「前に蓮くんの家で見たことがあったから」


「勝手に?」


「昔から幼馴染みの特権」


そう言って笑う。


でも、その笑顔には少しだけ寂しさが混じっていた。


僕は楽譜を開いた。


そこには、あの日までの自分がいた。


毎日練習して。


失敗して。


それでも諦めなかった頃の自分。


「もう無理だよ」


気づけば、口から言葉が漏れていた。


「右手は前みたいに動かない」


「……」


「この曲は、もう完成させられない」


静かな音楽室に、雨のないはずの雨音が聞こえた気がした。


星はしばらく黙っていた。


そして、小さく言った。


「完成って、誰が決めるの?」


「え?」


「昔の蓮くんと同じように弾けたら完成?」


星は鍵盤にそっと触れる。


「音楽って、同じじゃなくてもいいと思う」


一音。


優しい音が響いた。


「今の蓮くんだから出せる音があるんじゃない?」


その言葉に、胸の奥が揺れた。


僕はもう一度、楽譜を見る。


完璧だった頃の自分。


失敗した今の自分。


どちらが本当の自分なのか分からなかった。


「……もし弾けなかったら?」


僕が聞くと、星は迷わず答えた。


「その時は、一緒に考える」


「簡単に言うなよ」


「簡単じゃないよ」


星は笑った。


「でも、蓮くんが一人で苦しむ必要はないでしょ?」


その言葉が、なぜか胸に残った。


夕方。


僕は久しぶりに楽譜を置いて、ピアノの前に座った。


右手を鍵盤へ伸ばす。


震える。


怖い。


でも――。


一音目を鳴らした。


以前とは違う音だった。


少し不安定で、完璧じゃない。


それでも。


確かに、僕の音だった。


「……鳴った」


小さく呟く。


隣で星が笑う。


「ほらね」


「何が?」


「蓮くんの夏は、まだ終わってない」


その言葉を聞いた瞬間、不思議な感覚がした。


まるで、止まっていた時計の針が少しだけ動き出したような。


その日の帰り際。


星は机の上に一枚の紙を置いていった。


「忘れないでね」


「何を?」


「7月91日の約束」


紙には、新しい日付が書かれていた。


7月40日。


存在しないはずの日。


僕はまだ知らなかった。


その日付が、僕の人生で決して忘れることのできない一日になることを。

第三章まで読んでいただき、ありがとうございました。


今回は、蓮が失った音楽ともう一度向き合う章でした。


事故によって夢を失った蓮ですが、以前と同じ自分に戻るのではなく、「今の自分だからこそ奏でられる音」を探していきます。


そして、星が作る「7月91日」という特別な時間も、少しずつ二人にとって大きな意味を持ち始めます。


なぜ星は存在しない日を作ろうとするのか。

彼女が隠しているものは何なのか。


これから少しずつ明らかになっていきます。


蓮と星の夏を、最後まで見守っていただけたら嬉しいです。


感想や応援、ブックマークなどが執筆の励みになります。


次章もよろしくお願いいたします。

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