【第二章】君と作る、存在しない日
止まっていた時間が、少しずつ動き始める。
失ったものばかりを見ていた蓮の前に、星はいつも変わらない笑顔で現れる。
二人が作る小さな約束。
存在しないはずの一日。
それは、ただの思いつきだったはずの「7月91日」へと繋がる、大切な始まりだった。
これは、二人だけの夏が少しずつ形になっていく物語。
病院で過ごす時間は、不思議なくらい長い。
朝の検温。
昼の薬。
夕方になると、窓の外が少しずつオレンジ色に染まっていく。
同じような毎日の繰り返し。
事故に遭う前の僕なら、きっと退屈で仕方なかっただろう。
でも今は――。
「蓮くん、遅い」
中庭のベンチに座った星が、頬を膨らませながら僕を見る。
「まだ約束の時間ぴったりだろ」
「女の子を待たせる時間じゃないよ」
「昨日までそんなこと言わなかっただろ」
「昨日の私と今日の私は違うの」
意味が分からない。
でも、そんなくだらない会話が少しだけ心地よかった。
以前の僕なら、誰かと笑うことすら面倒だと思っていたはずなのに。
「ねえ、蓮くん」
星は空を見上げた。
「夏ってさ、短いと思わない?」
「急だな」
「だって、気づいたら終わってるんだよ」
風に揺れる木の葉を眺めながら、星は続ける。
「夏休みだって始まったと思ったら、宿題に追われて、気づいたら終わってる」
「普通そんなもんだろ」
「だから嫌なの」
星は少しだけ寂しそうに笑った。
「楽しい時間ほど、早く終わっちゃうから」
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
「じゃあ、どうするんだよ」
僕が聞くと、星は待ってましたと言わんばかりに笑った。
「増やすの」
「何を?」
「夏の日」
「……無理だろ」
「普通ならね」
星はポケットから一冊の小さなノートを取り出した。
表紙には、星らしい丸い文字でこう書かれていた。
『7月の思い出帳』
「何それ」
「秘密のカレンダー」
ページを開く。
7月1日。
7月2日。
7月3日。
丁寧な字で日付が並んでいる。
でも、その先には――。
「……7月32日?」
思わず声が出た。
星は楽しそうに笑う。
「そう」
「いや、7月は31日までだろ」
「知ってるよ」
「じゃあ何で」
星は少しだけ間を置いた。
「存在しない日があってもいいと思わない?」
「……」
「人間が作ったカレンダーなんて完璧じゃないよ」
星は指折り数える。
「2月は28日しかない時もあるし、4年に一度だけ増える日もある」
昨日も聞いたような話。
でも、今日は少し違って聞こえた。
「だったらさ」
星は笑った。
「私たちだけの、増えた夏があってもいいじゃん」
その笑顔を見ていると、否定する言葉が出てこなかった。
「じゃあ、何するんだよ。その存在しない日で」
「いっぱい思い出を作る」
「例えば?」
「ピアノを弾く」
「……」
「美味しいものを食べる」
「子供かよ」
「子供でいいじゃん」
星は笑う。
「大人になる前にしかできないことって、いっぱいあるから」
その日から、僕たちは小さな約束を作った。
毎日一つ、忘れたくない思い出を残すこと。
それが、僕たちだけのカレンダーだった。
数日後。
僕は久しぶりに音楽室へ向かった。
まだ右手には不安がある。
鍵盤を見るだけで、事故の日の記憶が蘇る。
でも――。
「蓮くん」
後ろから星の声がした。
「大丈夫」
根拠なんてない。
でも、その言葉だけで少しだけ指が動いた。
震える手で鍵盤に触れる。
小さな音が鳴る。
たった一音。
それだけだった。
なのに。
星は嬉しそうに笑った。
「ほら」
「何が?」
「ちゃんと、夏は続いてる」
窓の外では、雨上がりの空が少しだけ明るくなっていた。
僕はまだ知らなかった。
この小さなカレンダーが、いつか僕にとって何より大切なものになることを。
そして――。
星がなぜ、存在しない日を作ろうとしていたのかを。
第二章まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は、蓮と星が少しずつ距離を縮めていく様子を中心に描きました。
「7月91日」という存在しない日。
星がなぜそんな日を作ろうとするのか。
そして、その日が二人にとってどんな意味を持つのか。
まだ明かされていない部分も多いですが、これから少しずつ物語の中で紐解いていきます。
蓮が失った音楽を取り戻していく過程と、星が抱える秘密。
二人の夏を最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
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次章もよろしくお願いいたします。




