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賢珍の雨

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 田園風景が延々と広がる畦道を、独りの小坊主がとぼとぼと歩いていた。


 田植えを終えたばかりの水田には、ひ弱そうな苗が等間隔で植えられており、微かな風にも大きく揺れている。


 水田の水面には、今にも泣き出しそうな灰色の空が映っていた。


 ひ弱な苗と同様に震えながら歩く小坊主が、草鞋わらじを履いた小さな足を止めて、周囲をきょろきょろと見渡している。


どうやら、道に迷ってしまったようだ。


 上皇様が暮らす嵯峨院の近くに、慎ましい庵を構える鍼治療師がおり、人を生きたまま仏に変える法を使うと聞いて訪ねて来たのだが、辺りが薄暗くなったことで、嵯峨院の場所さえ見失ってしまった。


 小坊主が途方に暮れていると、畦道の先にある竹林の隙間から微かな灯りが漏れている。


 藁にも縋る思いで、その灯りを目指して走り出した。


 暗い畦道に何度も躓きながら、竹林を抜けて灯りに辿り着くと、そこは、小さな庵の裏庭だった。


 裏庭に面した縁側の腰高障子から、その淡い光が漏れ出していたのだ。


 他に民家も見当たらないことから、ここが鍼治療師の庵だろうと当たりをつけた。

 玄関から訪を入れようと歩き出した途端、腰高障子の中から声が掛けられる。


「鍼治療を求めて来られたのですか?」


その優しげな問い掛けに、急いで返事を返す。


「いえ。医師くすしの白川白雨殿にお願いの儀があって参りました」


 すると、しばらく考えるような間を置いてから、「どうぞ、お入りください」という声が掛けられる。


 しかし、小坊主が裏庭から玄関に回ろうとすると、それを制止するように、「ここから入ってもらって構いません」と告げられたので、縁側の踏石ふみいしに草鞋を置いたのだが、その折に、己の足が随分と汚れていることに気付いた。


 すすぎをどうしたものかと考えていると、「そのままで結構です」と促されたので、手拭いで軽く足を払ってから膝立ちのまま、「失礼します」と腰高障子を横に滑らせる。


 そこは、六畳ほどの板間で、奥に小さな土間が見えていた。


 目の前には高燈台たかとうだいが置かれており、油を入れた燈盞とうさんからジリジリと燈心とうしんの焼ける音が聞こえている。


 書見台の前に座っている若い男がじっと小坊主を見詰めていた。


 もとどりを軽く結った乱れ髪の下から、切れ長の目が強い光を放っている。


 身に纏った濃紺の水干すいかんは、何度も水を潜っているのか、色褪せて所々が白く解れていた。


 後ろ手に障子を閉めると、座り直してから素早く頭を下げる。


「私は、都の東円寺という寺で修行に励む小坊主で賢珍けんちんと申します。

 本日は、白川殿にお願いの儀があって参りました」


 頷いた男が、「私が白川白雨ですが、どのようなご用向きでしょう?」と素直に問い掛けてくる。


 普通なら、会って間もない人間に願い事があると頼まれれば、警戒するかいぶかしむのが普通だが、どうやらこの男は猜疑心さいぎしんというものを持ち合わせていないらしい。


「私を、生きたまま仏に変えて欲しいのです」


 賢珍の突拍子もない願い事に、男の顔に初めて、感情とも呼べる小さな微笑みが浮かんだ。


「何故、仏になりたいと思ったのです?」


この問い掛けに、戸惑った賢珍は「何故って…」と呟いてから、「全ての修行僧は仏になりたいと願っています」と、答えにならない返事を返してくる。


 すると白川白雨も、その答えに満足出来なかったのか、別の質問を投げ掛けてきた。


「賢珍さんは、生きたまま仏になって何がしたいのですか?」


 この問い掛けに賢珍は、膝に乗せていた拳をしばらく見詰めていたが、意を決したように本音を吐き出した。


「偉い僧になって、私を捨てた母君を見返してやりたいのです」


 白雨は、微笑を浮かべたままで厳しい言葉を投げ掛けてきた。


「賢珍さんを仏にすれば、私にどんな見返りが有るのですか?」


 この言葉に、驚いた賢珍はしばらくの間、無言で白雨を見詰めている。


 寺で修行をする賢珍にとって、人に頼み事をすれば、相応の見返りが必要になるという当たり前のことが分かっていないのだ。


幾許いくばくかの銭か米をお渡しすれば、仏にしてもらえるのでしょうか?」


 この問い掛けを無視した白雨は、「生きたまま仏になるということは、生きたまま死ぬということです。賢珍さんはそれでも大丈夫ですか?」と逆に聞いてくる。


「生きたまま死ぬというのは、一体どういうことでしょう?」


「身体は生きているのに、心は死んでいるという状態です」


 驚いた賢珍が、再び素朴な疑問を投げ掛けてくる。


「それは、仏になった偉い僧侶は、皆、心が死んでいるということでしょうか?」


 静かに首を振った白雨は、「いいえ」と前置きしてから…

「偉い僧侶は、仏に近づこうと努力をしていますが、それは、仏になるというこではありません。

 仏になると、美しい花を美しいと思わなくなりますし、親しい人が死んでも悲しいと思わなくなります。

 喜びも悲しみも、怒りさえ湧き上がってこなくなるのです。

賢珍さんは、そんな人間になりたいのですか?」


 白雨の問い掛けに、賢珍は、ぶるぶると首を強く振った。


「偉い僧侶は、心の痛みを感じていないから偉いのではありません。

 痛みを感じているのに、その痛みを何とか克服しようと、あがいているから偉いのです。

 最初から、痛みを感じないのとは違います」


 賢珍は白雨の手前、大きく頷いてはみたものの、分かったような分からないような複雑な表情を浮かべている。


すると、白雨が全く別のことを喋り始めた。


「この世界は、全てが陰と陽で出来ています。

影と光、鬼と仏、夜と朝、雨と晴れのように…

これは、人の身体に流れている気も同じなのです。

 身体には、陽(晴)にあたる聖気と、陰(雨)にあたる邪気が有って、どちらが欠けても人は生きて行けません」


 しかし、賢珍は、白雨の言葉を遮るように、「違います。邪気を持たぬ人間が善人で、邪気を持った人間が悪人です。私は、寺でそのように教わりました」と言ったので、白雨は静かに首を振った。


「もし、人が邪気を持たなければ、他人を疑わないので簡単に騙されてしまいますし、長者や分限者になりたいという欲望も、生き抜いてやるという、強い執着心も湧き上がってきません。

 人は、邪気を持っているからこそ生きていられるのです」


感心したように頷く賢珍を余所に、白雨の話は続いている。


「しかし、毒気である邪気が増え過ぎると、薬気である聖気を駆逐して魂が病んでしまいます。

 すると、心や身体にも悪い影響が表れてしまうので、増え過ぎた邪気は抜かなければなりません。

 そして、今の賢珍さんからは大量の邪気が溢れているのです」


 その言葉に驚いた賢珍が、「えっ!私の身体から邪気が溢れているのですか?」と訊ねてきたので、白雨が大きく頷いた。


「私は、普通の鍼治療もやっていますが、増え過ぎた邪気を抜くという治療もやっています。

 その治療がお祓いや呪術の類だと勘違いされて、月に何人かは賢珍さんのように、仏にしてくれという人がやって来るのです。

 人を仏に変えることなど出来ません。

しかし、心の病を癒すことなら出来るのです。

 増え過ぎた邪気を放置すれば命にかかわるので、このまま治療することをお勧めします」


 治療師にこう言われて、「大丈夫です」と治療を断れる人間などいない。


しかも、賢珍は坊主とはいえまだ童子なのだ。


 しかし、賢珍は気丈にも「私には、お支払いする銭がありません」と首を振った。


 すると、白雨が「賢珍さんを仏にすることは出来ませんが、邪気を抜くだけなら見返りは求めませんよ」と笑ってくれる。


 白雨に指摘された見返りの話が、よほど衝撃的だったのか、賢珍は懐を探って守り袋を大事そうに取り出した。


 その守り袋は、綾織物あやおりものを用いた高価な物で、まだ新しいところをみると、俗世を離れる前に母親から渡されたのだろう。


「これを薬礼にしてください」


 この言葉に白雨は笑顔で、「薬礼にしては多過ぎます」と言いながら、賢珍の守り袋を押し返した。


 賢珍は素直に守り袋を懐に仕舞うと、丁寧に頭を下げながら「よろしくお願いします」と礼を述べたのだ。

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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