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空海の弟子

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 ワシが東寺に向かおうと、綜芸種智院の回廊を歩いておると、目の前に白いものがヒラヒラと舞い落ちる。


 羽虫かと思い、手で払おうとしたが、それは可憐な山桜の花びらであった。


どうやら、庭の山桜が散り始めたようじゃ。


 ワシは足を止め、しばし山桜を眺めておったが、ふと、その根元にしゃがみ込む童を見つけた。


見覚えのある童じゃ。


 先ほど、語らいの場で、明るく好奇心旺盛であった貴族の子…


 確か、延信と呼ばれておったな。


 こんな所で、一体何をしておるのかと、離れた場所より見守っておると、どうやら蟻を潰しておるらしい。


 しかも、一匹一匹を丁寧に、いや、執拗にプチ、プチ、プチ、プチと…


 ワシは思わず、「何じゃ、ワシと同類ではないか…」と呟いてしまう。


 静かに近づくと、ワシに気付いた延信が、「ハッ」と顔を上げた。


 その顔には、「見られてはならぬものを見られた」という羞恥の色が、ありありと浮かんでいる。


「大師様…」


後の言葉が続かない。


「何じゃ。

蟻を潰しておったのか?」


 延信は慌てて立ち上がり、「申し訳ありません…」と深く頭を下げる。


しかし、ワシは「良い、良い」と手を振った。


「私は、無益な殺生を犯してしまいました…」


ワシは、思わず笑ってしまう。


「蟻を潰したくらいで殺生とは、笑止千万じゃな」


延信は、驚いた顔でワシを見る。


「ワシはな、今まで数えきれぬほどの殺生を繰り返してきた。

そんなワシに、お主を責める資格などない…

 ところで、ずいぶん念入りに潰しておったようじゃが、何ぞ理由でもあるのか?」


延信は、暗い顔で俯いてしまう。


 ワシは、返答を促すように、そんな延信をしばらく見つめていた。


「そうか、言いたくはないか…

では、お主の心を読んでみるとするか」


 こう言うと、冗談だと思ったのか、少し微笑んだ延信は、ワシの次の言葉に凍りついてしまう。


「なに、なに…

お主は、生まれながらに痛みを感じぬ性質なのか。

 それで、もがき苦しむ蟻の痛みが知りとうて、何度も何度も潰しておったとな…

そうか。

 お主は、幼きころから、ずいぶんと辛い思いをしてきたのだな。

 人はな、己と違うものを見れば排除してしまう。

 されば、さきほどの明るいさまも演技であったか…」


あまりの驚きに、延信が後ずさる。


恐怖を感じているのだろう。


「痛みが知りたいのか?」


 ワシがそう問うと、延信は、おずおずと頷いた。

ワシも、笑顔で頷いてやる。


「では、ワシが痛みというものを教えてやろう」


 そう言うと、ワシは、延信の体内に雨雲を沸かせて、雨を降らせようとした。


 ところが、延信は不思議そうにワシを見詰めるばかりで、何も起こらない。


 本来であれば、大人でも膝をつくほどの痛みに襲われる。


 たとえ、身体の痛みを感じぬ性質でも、雨が与える心の痛みは、身体と同様の痛みを伴う。

心と身体は、入り口が別々でも部屋は繋がっているのだ。


 驚いたワシは、再び、延信の体内に雨雲を沸かせた。


「これでどうじゃ。痛みを感じるであろう?」


 しかし、首を傾げた延信は、驚くべきことを口にする。


「なんだか、胸がモヤモヤといたします。

これが、痛みというものなのでしょうか?」


 これは、生まれながらに痛みを知らぬ者が、初めて痛みを受けた反応ではない。


 むしろ、痛みを知らないからこそ、初めて味わう痛みに、雷に打たれたような反応を示すはずじゃ。


 それが、胸がモヤモヤする程度とは、一体どういうことなのだ?


何故なのじゃ…


そして、ワシは、あることに思い至った。


「お、お主…もしや、俄か(にわか)なのか?」


 延信は、不審な表情を浮かべて、じっとワシを見詰めている。


「黄帝内経には、俄かの特徴なども記されておるから、痛みを感じぬ体質と、俄かであることに因果関係はないはずじゃ…

 されど、その性質のお陰で、ワシは思わぬ拾い物をしたことになる。

 本来であれば、新しい生徒一人一人に、雨雲を沸かせて調べる手はずであったが、どうやら手間が省けたようじゃな」


「何のことか、さっぱり分からぬ」という顔の延信に向かって、ワシは、こう言ってやった。


「のう延信…ワシの弟子にならぬか?」

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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