恒貞親王
平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。
御簾が上げられ、板間に敷かれた茵の上に、墨染の衣を纏った淳和院后と、濃紺の地味な狩衣姿で恒貞親王が座っている。
さきほどまで転がっていた黒装束の亡骸や、打ち壊された蔀は、良房の手の者と思われる使用人らが、手際良く片付けていった。
「さきほども申した通り、我が子、恒貞の前世の穢れを祓うてはもらえぬか?」
私は、頭を下げながら素直に答える。
「私がお見受けしたところ、恒貞親王からは、穢れの気配をまるで感じませぬ。
それどころか、常の人よりも穢れが少なく、まことに清らかなお人柄とお見受けいたします」
私の言葉を受けて、淳和院后が恒貞親王に視線を向け、静かに頷きかける。
すると、恒貞親王は遠くに視線を向けながら、抑揚のない、童のような言葉を紡ぎ出した。
「わ、わたぐじは、つ、つ、恒貞親王ど…も、申しまずる…」
私は、驚いて顔を上げてしまう。
幾度か、お目にかかったことはあるものの、お声を拝聴するのはこれが初めてだ。
それを見た淳和院后も、咎めることなく口を開いた。
「幼き頃から、こうなのだ…
言葉が上手く話せず、物覚えや知恵も人並みではない。
典薬寮の医師は無論のこと、陰陽師や高僧にも診てもらったが、皆、口を揃えて、前世での穢れは、今世では祓えませぬと申すのじゃ。
そこで、神祇伯殿の噂を耳にしてな。
何とかならぬものかと、声を掛けてみたのだが…
やはり無理であったか」
私は、しばらく考えてから口を開いた。
「空海が唐より持ち帰りし霊枢は、穢れのことを雨と呼び、その雨を操ることで、人を殺めもすれば、癒しもする呪術にございます。
ところが、恒貞親王からは、雨の気配をほとんど感じませぬ。
されど、淳和院后様からは、湧き立つほど強き雨の気配を感じるのです。
このままでは、お命も危ういかと…」
淳和院后は驚いて顔を上げる。
「何と、それは、わらわの穢れが恒貞に、悪しき影響を与えていると申すのか?」
私は、静かに首を振る。
「そうではありませぬ。
恒貞親王のお身体は、生まれながらにて、癒すことは出来ませぬが、淳和院后様の穢れはそうではありませぬゆえ、祓うことが叶いましょう。
さすれば、恒貞親王のお加減も、今より改善するやもしれませぬ」
「何と、それは誠か?」
私は、大きく頷いた。
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