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空海

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 船が、物凄い音で軋んでいた。

今にも、船体がバラバラに砕けそうな音が響き渡っている。


 木が凄い力で捻られ、太い繊維がメリメリと裂ける音がした。


決して小さな船ではない。


 長さが十七間(約三十メートル)、幅が四間(約七メートル)もある巨大な木造帆船なのだ。


 しかし、如何せん乗っている人数が多過ぎる。

はっきりと数えた訳ではいないが、己れが乗っている一番船だけでも乗船者は百人を軽く超えているだろう。


 その上、積み込まれている荷も多かった。

明らかに船の最大積載重量を超えてしまっているのだ。


 もとより、ほとんどの乗船者が死を覚悟しているが、それだけの人数と大量の荷が詰め込まれた狭い空間を、激しく揺すられた挙句に、女童の悲鳴みたいな軋みを四六時中聞かされていれば、恐怖を覚えない方がどうかしている。


 しかも、そんな嵐が二日も続いているのだ。


 食事どころか排泄もままならぬ状態で、みな、恐怖に震えているが、悲鳴を上げる元気さえ残されていない。


 ワシも、胃液さえ吐き尽くしてしまって、口から出てくるのは、か細い唸り声くらいだ。


 出航してから七日が過ぎて、そろそろ到着かと安心した矢先に、大きな野分(のわき・台風)に襲われたので、落胆からの精神的な苦痛も大きかった。


 そして、死を前にして度々思い出してしまうのは、何故か、大嫌いだった空と海しかない故郷のことだ。 


 父親は讃岐国多度郡の郡司だったが、中央に打って出る野心もなく、その一生を辺鄙へんぴな片田舎で終えようとしていた。


 ワシは、そんな父親の不甲斐ない生き方が大嫌いで、母方の叔父である阿刀大足あとのおおたりを頼って十四歳で都に上ったのだ。


 阿刀大足は伊予親王の侍読(じどく・家庭教師)も務める学者だったので、大学に入るまでに様々なことを学ばせてもらった。


 大学を辞めてからも、何くれとなく世話を焼いてくれていたのだが、ワシと同じく阿刀大足から個人指導を受けていた橘逸勢たちばなのはやなりが遣唐使に加わるという噂を聞き、ヤツを通じて、ワシを遣唐使一行に無理やり押し込んでくれたのだ。


 しかし、学問僧でなければ許可が下りないと言われたので、出発直前に慌て出家したのだが、その折に僧名をどうするかと考えた時、莫大な入唐費用を掻き集めてくれた父親を思い出していた。


 父親である佐伯田公さえきのたぎみは、中央に打って出るほどの度胸は持ち合わせていなかったが、中央から馬鹿にされるのを嫌う自尊心の強い男で、そういう意味では典型的な田舎の役人だったのだ。


 しかし、そんな父親が息子を入唐させる為に、親戚中に頭を下げながら莫大な費用を工面したのだから、何だか哀れな気持ちになる。


 その反面、自分が成し得なかった中央への夢を己れに押し付けてくるのかと、反発する気持ちも湧き上がってきた。


 だから、反面教師である父親を空と海しかない辺鄙な讃岐国になぞらえて、それを戒めとする為に、我が名を空海としたのだ。


 それがどうだ…


 それほどの苦労を重ねて、なりたくもない坊主にまでなって、何とか遣唐使に紛れ込んだというのに、ワシは今、呆気なく海の藻屑になろうとしている。


 その時、叩きつけるような大きな揺れに「ハッ」と我に返ると、メリメリという木の繊維が無理やり引き裂かれる音と共に、帆柱が折れて甲板に叩きつけられる音が響いた。


 この嵐では全て流されているだろうから、その上で帆柱が折れたとなれば、もう自力での航行は叶わない。


 これで、生きる希望が全て絶たれてしまったことになる。


 しかも、この船の船体は、鎧張りという工法で作られているから、船底が平らで波切が悪く、漂流すれば助かる見込みは殆ど残されていないのだ。


 そんなことを考えていると、絶望に支配されたワシの意識は、現実から逃避するように徐々に薄れていった。

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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