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逸勢の命

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 ワシらは、近衛の兵に取り囲まれ、宮城内にある近衛府の曹司(ぞうし・役所)に連れて来られた。


 密閉された広い部屋には、何本もの高燈台が置かれており、ジリジリと淡い光を放っているので部屋は明るいのだが…


風が通らぬので蒸し暑い。


 じっとしていても、ワシの顎からは汗が滴り落ちてくる。


 そこに、白川白雨、玉若、伴健岑に加えてワシまでもが、まとめて幽閉されているのが不自然であった。


 普通であれば、謀叛人を同じ部屋に閉じ込めることなどあり得ない。


 とりわけ、白川白雨は奴らにとって最も大きな脅威のはずだ。


 やがて、頑丈な扉がギシギシと音を立てながら開くと、空海を先頭に、藤原良房、良相兄弟が姿を現した。


 されど、久しぶりに見る良房は、いつものギラギラと滾った様子はなりを潜め、まるで、何かに怯えるようにおどおどしている。


 おもむろに、右手を軽く挙げた空海が、「おい。良房…」と呼ぶと、「ヒッ!」と驚いた良房が、慌てて文箱を空海に差し出す。


 すると、文箱を乱暴に開いた空海が、中から丁寧に折り畳まれた白紙を取り出して、こう言った。


「正良(まさら・仁明天皇の諱)が、太政官に書かせた詔書しょうしょじゃ。

 下手くそな字じゃのう。

これなら、逸勢の方がなんぼかマシじゃわい。

 なに、なに…

長々と書いておるが、要するに、皇太子恒貞親王は、宜しく東宮の位を辞すべし。と書かれておる」


 それを聞いたワシは、その場に崩れ落ちた。


 帝からのみことのりが下ったとなれば、全てが終わったも同然だ。


「じゃが、こんな紙切れ一枚で、正良や良房の陰謀が成就されるわけではない。

 謀叛が成立して、廃太子が正当化されなければならぬ。

 それには、にえが必要なのだ。

分かるな…」


ワシは、立ち上がって空海を睨みつけた。


「みなまで言わずとも良い。

ワシが贄となろう」


 その言葉に空海が目を細める。


「ほう。流石にいさぎよいな。

だが、お主一人という訳にわいかぬ。

 正良は、檀林皇后まで取り込もうと画策した阿保親王を、どうしても許せぬというておる」


 ワシは再び空海を睨んだ。


「二度までも、阿保親王に言われなき汚名を着せようというのか?」


 空海は少し考えてから、「汚名については考慮してやろう…」と言った。


 ワシは軽く頷いた。


「他にも、諸々と細かき条件がある…」


空海が、呆れたように首を振る。


「お主も欲張りじゃな…

良かろう。

 その条件とやら、全て聞き入れてやる。

いうてみよ」


 すると、良房が、「それは、帝に…」と口を挟んできたが、空海が睨みつけると、また、「ヒィ!」と小さな悲鳴をあげて押し黙る。


 良相に至っては、ずっと俯いたまま震えている。


「白雨を、それなりの地位に就けてくれ…」


 この言葉に、反論しようと口を開いた白雨を、ワシは強く制した。


「お主は、黙って聞いておれ!

これは、ワシの命を差し出す条件なのだ!

 ワシの命は、お主が思うほど軽うはない!」


 再び、空海に向き直った。


「そして、玉若を白雨に嫁がせてやりたい…」


 玉若が、「ハッ」となってワシを見たが、ワシは、あえて何も言わなんだ。


口を開けば、涙が溢れてしまうからだ…


「更に、伴健岑については、名目状は流刑でも構わぬが、都に留め置き、頃合いを見計らって赦してやってほしい」


 空海が、ワシに軽く頷いた。


「それで終いか?」


ワシも、空海に軽く頷く。


「逸勢…お主との長い旅路は、まことに愉快なものであった。

 最後に、言い残すことはあるか?」


 ワシは、しばらく空海を見つめる。


そして、最後に、こう言うてやった。


「何が、逸勢の方がマシな字を書くじゃ…

ワシはな、お主よりも字が上手いわ!」

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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