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橘邸の対決

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 ワシは、目の前に立つ老人に目を凝らす。


 長髪の白髪頭に、短い白髯を蓄えた男は、山賊のような荒々しさを漂わせているが、間違いなく、あの空海だった。


 ただ、かつてはその目の奥に、悪戯っ子のような明るい光を宿していたにも関わらず、今は、死んだ魚のように濁っている。


 しかも、音楽を奏でるように軽やかだった声は、まるで泥を吐くように途切れ途切れで、抑揚すら感じられない。


 ワシが、白雨に目を向けると、みなが驚愕しているのにも関わらず、ただ独り、空海に厳しい視線を向けているのだから、全てを承知していたのだろう。


「雨祓い(あめばらい)の法に雨乞い(あまごい)の法…

 そのいずれも、雨香うこうを焚かず、祈雨きうを唱えず、雨乞印うこういんさえ結ばずに操れるとは、よほど厳しい研鑽を積んできたのであろう。

 全ての儀礼は、きっかけに過ぎぬとはいえ…

人間のままで…

 虚ろにもならず…

さすがは、我が弟子だ…」


 白雨は、空海に厳しい視線を向けながら、咎めるように問いかける。


「虚ろとなりて、何の欲望も持たぬはずの貴方が、何故、我欲の塊と化した良房に手を貸すのです?」


 そこに、呼ばれてもおらぬのに藤原良相が出しゃばってきて、「我欲の塊とは無礼な!」と叫んだが、その後に言葉が続かない。


 大男の兵と同様に、「グッ」と呻いて片膝をついてしまう。


「黙れと申したであろうが、青二才め…

殺すぞ…」


 その言葉に、何の感情も込められていないのが、逆に恐ろしい。


 脅しではなく、本当に殺す気なのだろう。


 激痛に耐えながらも、恐怖に支配された良相は、地面に頭を擦り付けて詫びる。


「も、申し訳ご、ございませぬ…」


 すると、空海がしゃがみ込んで、魚の死骸のような目で良相の顔を覗き込んだ。


「お主の身体の中で、一体何が起こっておるか分かるか?」


 良相は、冷や汗をダラダラと垂らしながら、必死に首を振る。


「これはな、霊枢の雨乞いという法だ。

お主の身体に、もともと宿っているよこしまな心を、大きくしてやったのだ…

 お主は、自らの邪な心に押し潰されようとしておる。

 どうだ、苦しいか?」


良相が、ガクガクと必死に頷いている。


立ち上がった空海が、ワシを見て目を細める。


「逸勢か…久しいのう」


そこに、再び白雨が声を掛けた。


「何故なのです?」


空海は、今、気付いたという風に白雨を見た。


「ワシさえ居なければ、この危機を簡単に切り抜けられたと…怒っておるのか?」


白雨が首を振る。


「白雨、南山でワシが話したことを覚えておるか?

 ワシが、虚ろとなった日のことだ」


白雨が厳しい顔で頷いた。


「ワシは、お主にこう言うた。

涅槃を見たくなったと…

 お主のお陰で、ワシは実際に涅槃を見た。

そして、大日如来と一つになったのだ。

 いや。そうではない…

ワシが大日如来となったのだ。

 驕りなどではない。

事実なのだ…」


白雨が小さく首を振る。


「そんなことを聞いているのではありません。

何故、我らを裏切り、良房に手を貸すのかと聞いているのです」


 空海が、「そんなことも分からぬのか」という顔で白雨を見た。


「あの折にも、言うたではないか。

胎蔵曼荼羅が、この世の全てを著しておると…

 ワシは、あそこに描かれた調和を保とうとしておるだけで、だれの味方でもないのだ」


白雨がまた強く首を振る。


「この世の調和を保つ?

神にでもなったつもりですか?

 良房に手を貸すのであれば、我々の敵とみなします」


今度は、空海が首を振る。


「神になったつもりなのではない。

神になったのだ。

 白雨、お主に選択の余地などない。

お主の呪力が如何に強かろうが、虚ろであるワシには効かぬ。

 そして、俄かであるお主ならワシの呪力に耐え抜けるであろうが、普通の人間であれば呆気なく死んでしまう。

 勝負にもならぬわ。

例えば、そこに居る玉若に、ワシが雨乞いの法を仕掛けたとして、お主は守れるのか?」


 白雨が、「ハッ」と顔を上げてから、悔しそうに唇を噛む。


「悪いことはいわぬ、諦めるのだ…」

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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