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王冰と王蘭

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 太医署から帰って、食事を済ませると、私は書斎にこもって「黄帝内経」の「霊枢」を開いた。


 静かな時が流れ始める。


 そこに、一人娘で十三歳になる王蘭おうらんが茶を運んでくる。


「父上、お疲れでしょうから、温かい菊茶をお持ちしました」


 青磁の湯呑を覗き込むと、淡い黄金色の花びらが、ゆっくりと膨らみ初めていた。


私は、王蘭に微笑みを返す。


すると、いつものように王蘭の小言が始まる。


「母上が亡くなり、悲しみに暮れる幼い私を不憫に思って…

 不老不死の研究に没頭するのは、誠に、ありがたきことですが、私は、もう子供ではありませぬ。

 母上の死も克服しました…

だから、少しお休みくだされ。

 太医署での細かき鍼治療に加え、書斎での読み書きでは、目を休める暇もありませぬ」


 私は、苦笑いを浮かべながら、小刻みに何度も頷いた。


「分かった、分かった。

王蘭は、まだ幼いのに、まるで母親のようじゃな。

 されど、次に鑑真大師様がお越しになる日も近い。

それまでに、成果をまとめておかねばならぬのだ」


 私がそう言うと、まだ、何か言いたげな王蘭が、渋々といった様子で部屋を出て行った。


 その後ろ姿を見送りながら、思わず溜息を吐いてしまう。


 聡明で美しいというのも考えものだ。


 よもや、その評判を聞きつけた、あの変態高官が、王蘭を側室に迎えたいなどと言い出すとは…


 丁重に固辞したものの、先方は、面子を潰されたと激怒しておるらしい…


 そこで、幸せな夢から覚めたワシは、胸の激痛に襲われた。


 気がつけば、ぐっしょりと寝汗をかいている。


「な、なんじゃ!…なんなのじゃ!

何故、心を失ったはずのワシが、昔の思い出を夢に見てしまうのだ…」


そう呟いた瞬間、稲妻が走った。


「違う!夢などではない!

そ、そうじゃ!

 あ、あの時じゃ!

あの時、あの変態高官を、霊枢を用いて呪い殺しておれば、王蘭は殺されずにすんだのだ!」


 そう叫んだ途端、急に、死んだ妻の顔が浮かんできて、全身から力が抜けてしまう。


「い、いや。…それも違う…

ワシは、病の妻に誓ったのだ。

 病のない世界を作ってやると…

そなたのように、幼子をこの世に残したまま旅立たねばならぬ、そんな悔しき思いを、この世から消してやると…

 その言葉を聞いた妻は、安らかな笑みを浮かべながら息を引き取った。

 だからこそ、ワシにとって霊枢は神聖な治療であらねばならぬ。

 決して、人を不幸にする道具であってはならぬのだ…

 されどワシは、己の痛みに負けて、虚ろとなってしまった。

 ならば…

ワシと同じ痛みを抱えたあの男に、全てを託してみるというワシの判断は間違っておらぬ」

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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