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佐伯眞魚

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

ワシが目を覚ますと奇跡が起きていた。


 十八歳で結婚して、二十四歳で全てを失ってから、熟睡などしたことがなかったのに、意識を失ったように眠った挙げ句に、今、爽やかな目覚めを感じている。


 朝、目覚める度に襲われていた吐き気も、頭痛も、目眩さえ感じない爽やかな目覚めなどいつ以来だろう。


八年ぶりか…


 板間から身体を起こすと、身体まで軽くなっている。


 体調の急変に戸惑うワシを、啓玄子は死んだ魚の目で見詰めてきた。


「私に、どんな治療を施したのですか?

こんなにも気分が良いのは八年ぶりです」


「お主の穢れを抜いて、喰ろうてやったのだ」


「わ、私の穢れを喰ろうたのですか?

貴方は、穢れを喰ろうても平気なのですか?」


啓玄子は、感情の抜け落ちた顔を横に振る。


「普通の人間なら死んでしまう。

穢れに、心を乗っ取られてしまうからな。

しかし、ワシには乗っ取られる心がないのだ」


「やはり、貴方は虚ろなのですね…」


 ワシの言葉を無視した啓玄子は、囁くように驚くべきことを口にした。


「失のうた息子の名を逆さまにして、僧名としたのは、息子を転生させたいという親心か?

 それとも、雅な言葉遊びのつもりか?」


 ワシは、驚きのあまり、何も言えずに固まってしまう。


「穢れには、お主の辛い記憶が刻まれておるのだ…

 お主が、ほうぼうで口にしている、空と海しかない讃岐国になぞらえたという僧名は、息子の名の由来であったか…

 愚かなヤツめ」


 ワシは、「な、何が…愚かなのですか?」と呟くのがやっとだった。


「命懸けで唐に渡り、銭で密教の経典を買い上げ、帝への賂いとして不老不死の法を手に入れようと、なりふり構わず足掻いておる。

 そんなに出世がしたいのか?

お主の愚行が、妻と子を死に追いやったというのに、まだ、出世を望むというのか?

 空海の名など、息子の供養にもならぬわ!

愚か者め…」


見詰めていたワシの拳が、小さく震え出す。


 その震えが、全身に広がって噛み締めていた奥歯がカチカチと鳴り始めた。


 ワシは、噛み締めた奥歯から、泥を吐き出すように震える声を絞り出す。


「で、では、どうやって生きていけば良いのだ…

 私は、自死することを己に禁じた。

この身が引き裂かれるような痛みから、逃げるのは卑怯者だと思ったからだ。

 あれから八年間、ずっとこの激痛を味わいながら生きてきた。

 夜は眠れぬ。

朝起きると、震えるほどの頭痛と吐き気に、絶え間なく襲われる。

 それでも、これが天罰だと思い定めて生きているのだ。

 私の人生に意味などない。

生きることが天罰だからだ。

 しかし、私が出世しなければ、妻と子の死が無駄になるではないか…

 妻と子の死に意味を見出したいのだ!!

だから出世を望む!!

 何者かになってみせる!!

それが悪いのか?

 愚かなのは知っている!!

では、どうやって生きて行けば良いのだ!!

 教えてくれ!!

分からぬのだ!!

 分かるのなら教えてくれ!!

私は、どうすれば許されるのだ!!」


 ワシの世迷言など、虚ろには届くまいと思って叫んでみたが、啓玄子は、自らの胸を右手で掴んで苦悶の表情を浮かべている。


 ワシは、戸惑いながらも啓玄子の身体を心配した。


「どうしたのだ?体調がすぐれぬのか?」


 ワシが声を掛けると、啓玄子は苦悶の表情を浮かべながら首を振る。


そして、絞り出すようにこう呟いたのだ。


「この身に取り込んだお主の穢れが、ワシに痛みを与えている。

 しかし、心地良い痛みなのだ…

なるほどのう。

 お主は愚か者だが、卑怯者ではない。

じゃが、ワシは…愚か者ではないが、卑怯者であった。

 ワシも、お主と同様に娘を失ったのだ。

しかし、ワシは…その痛みに耐えかねて、虚ろとなった。

 逃げ出したのだ…

お主の穢れを取り込んだことで、ワシに、再び心が芽生えてしまったようだ。

 鑑真の中途半端な施術のせいじゃな…

思い出したわ。

 心を引き裂かれるようなこの痛みを…

娘を奪われた痛みだ。

 決して、忘れてはならぬ痛みであった。

世を捨て、虚ろとなった今、啓玄子と名乗っておるが、ワシの名は王冰という。

 鑑真と共に、黄帝内径に記された不老不死の法を研究していた男で、よわい百を超える化け物だ。

 これが、不老不死の実態なのだ。

それでも、不老不死の法を手に入れたいのか?」


ワシは、何も言えずに王冰を見詰めていた。


 すると、心が無いはずの王冰の目から、一滴の涙が流れ落ちてくる。


 それに気付いておらぬのか、王冰は独り言を呟くように、こう言った。


「明日、同じ時刻にここに来るが良い。

お主が探している物を用意しておいてやる」

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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