逸勢の失脚
平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。
東寺に向かうはずの牛車は、無事にワシの邸宅に到着した。
伴健岑と三人の舎人が平伏する中、不安を露わにした恒貞親王を我が邸宅に招き入れる。
準備が整い次第、ここを立たねばならない。
屋敷に入ると、玉若が何事かと飛び出してきたが、恒貞親王を見ると、事情を察したのか静かに平伏した。
恒貞親王が、誰にともなく「せ、世話をかけるのう…」と呟いて部屋に入る。
ワシは、玉若に向かって「白雨はまだか?」と訊ねると、一瞬、喜色を浮かべた玉若が、「白川殿が来られるのですか?」と逆に聞いてきたので、「そうか、遅いのう…」と呟いた。
いくら鈍いワシでも、玉若の気持ちには気付いている。
ワシとて、身分違いだと、白川家に嫁ぐのを反対するつもりなどないが、今の状況を鑑みて、白雨が玉若を巻き込みたくないと考えておるのだろう。
周囲の目もあるので、「母君を早くに亡くされた父君を、お一人には出来ませぬ」と笑っておるが、一番辛いのは本人に違いない。
すると、舎人たちと門前に居た伴健岑が、ドカドカと派手な足音を響かせて屋敷に入ってきた。
ワシが不審に思い、「どうしたのだ?」と訊ねると、ワシの耳元に口を寄せ、「屋敷が囲まれております」と囁いたのだ。
驚いたワシは、「早すぎる!」と叫んで門前に急いだ。
しかし、そこにはガチャガチャと甲冑の擦れる音が満ちており、弓や太刀を帯びた近衛府の兵がひしめいていた。
検非違使などではなく、圧倒的な武力を誇る官軍なのだ。
藤原良房が、弟である藤原良相に命じたのだろう。
退路は完全に絶たれてしまった。
振り返ると、玉若まで心配そうに顔を覗かせているので、「中に入っておれ」と言ったが、動こうとはしないだろう。
そこに、甲冑を纏った大男が入ってきた。
「勅命により、但馬権守殿に申し上げまする。
屋敷は、近衛の兵で幾重にも囲みました。
抗われても益はございませぬ。
恒貞親王をお渡しくだされ。
ご家族と御身のため…」
そこまで口にし大男が、「グッ…」と呻いて片膝をついた。
その背後には、鋭い目つきの白川白雨が立っている。
驚いたワシが「白雨か…」と呟くと、白雨は、それに応えるように軽く頭を下げた。
「遅くなりました」
白雨は、この人混みを掻き分けてここまで来たのであろう。
その証拠に、兵士たちの群れが花道のように左右に割れており、人一人が通れるようになっている。
道を開けた兵士たちは、目の前の大男のように、思い思いの態勢で呻いていた。
屈強な兵士たちの群れに恐怖が広がっている。
「何なのだあの男は!我々に何をしたのだ!」
「物の怪の類いだ!」
「気をつけろ!怪しい呪術を使いよるぞ!」
そこに、広がる恐怖を鎮めるように、高い男の声が響き渡った。
「ほう。雨乞いの法か!
雨乞印も結ばず、祈雨も唱えずに、雨雲を沸かすのか!」
その声を遮るように、藤原良相の慌てた声が聞こえてくる。
「五筆和尚。
貴方様が、自ら出られるほどの相手ではごさいませぬ。
どうか、このままお隠れくだされ」
「黙れ青二才!
お前たちが束になっても、勝てる相手ではないわ!
何せ、あやつはワシの弟子なのだからな!」
ワシは驚愕した。
門を潜って現れたのは、紛れもなく七年前に入定したはずの空海だったのだ。
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