表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/21

延信と胎蔵曼荼羅

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 私が、密教の総本山である南山(なんざん・高野山)を訪れるのは初めてだ。


 暗い廊下を進みながら、空海に呼び出された理由を考えてみたが、全く思い浮かばない。


 廊下に片膝をついてから、「白川延信です」とおとないを入れた。


 部屋に入ると、空海の背後に置かれた高燈台が、ジリジリと揺れながら淡い光を放っている。


 その灯りは、むしろ結跏趺坐の空海を闇に沈め、背後に掛けられたじくだけを、赤黒く浮かび上がらせていた。


 幅の広い掛け軸には、胎蔵曼荼羅たいぞうまんだらが描かれている。


 正式には、大悲胎蔵生曼荼羅だいひたいぞうしょうまんだらといい、中心には、四尊しそんの仏と四尊の菩薩が大日如来をとり囲んでいる図、「中台八葉院ちゅうだいはちよういん」が置かれ、その周りを幾重にも神や仏がとり囲んでいる図像だ。


 私が空海の前に坐ると、空海が右手の親指を背後に向け、「延信。あれが何か分かるか?」と呟いたので、私は見たままを、「胎蔵曼荼羅です」と答える。


 すると空海は、まるで秘め事を話すかのように、少し前のめりになりながら、「あの絵を見て、どこかおかしいとは思わぬか?」と囁いたので、私は首を傾げた。


「はて、どこもおかしな所はありませぬが…」


空海は楽しそうに笑顔を浮かべている。


「胎蔵曼荼羅はな、子を孕んだ母親をあらわしておる。

 しかし、その腹の子は母親に包まれながらも、その愛には気付いておらぬ。

 母親は屋敷に包まれ、屋敷は街に包まれ、街は国に包まれ、国は世界に包まれ、世界は大日如来に包まれておるのじゃ。

 じゃが、誰もそれらの愛に気付いてはおらぬ。

 胎蔵曼荼羅は、この世の全てを著しておるはずなのに、描かれていないものがある。

 何か分かるか?」


私は、この問い掛けにも素直に首を振った。


「分かりません」


空海の笑顔が大きくなる。


「鬼じゃよ」


 私が、戸惑いながらも「しかし、それは…」と反論を口にしようとするのを遮って、空海が再び口を開いた。


「まことに、胎蔵曼荼羅がこの世の全てを著しておるのなら、仏や菩薩、神々だけが描かれておるのはおかしい。

鬼はどこにおるのじゃ?」


 考え込む私を見つめながら、空海が楽しそうに囁いた。


「仏の中じゃ」


 「えっ!」と驚きの声をあげる私を尻目に、空海の囁きは続く。


「菩薩の中にも、神々の中にも鬼が棲んでおる。

人と同じじゃ。

 全てのものに表と裏が有るように、邪気と聖気の両方を孕んでおる。

 分かるか?

神や仏は善ではない。

同様に鬼も悪ではないのじゃ。

ワシが何故、邪気を雨と呼ぶのか分かるか?」


 私は、この質問に戸惑いながらも、「晴れの裏だからですか?」と問い掛けるように答えた。


 しかし、その答えに満足できなかったのか、空海の話は続く。


「天から降れば雨、流れれば川、澱めば湖、行きつけば海となる。

 しかし、その本質はただの水じゃ。

人が勝手に、ものの変化をそう呼んでおるだけで、しゅを掛けているのと同じじゃ。

 これは人も同じで、怒れば悪、笑えば善と呼ばれるが、本質は何も変わらぬ。

 変わった気でいるだけじゃ。

そして、我らは人々の変わった気を利用して呪を掛ける。

 掛けられた方は、掛かった気になり…

掛けた方も、掛けた気になっておるだけで、本質は何も変わらぬ」


私はため息を吐き出しながら、空海を嗜めた。


「良いのですか?

密教の頂きに君臨する貴方が、それを口にすると、鎮護国家の法さへも否定することになりかねませぬが…」


 また、空海が短い息を吐き出して「フッ」と笑った。


「かたいことを言うな。

お主は、密教の弟子ではない。

 霊枢の弟子じゃ。

そして、ワシにも密教という表の顔と、霊枢という裏の顔がある。

 だが、それを仏の顔とも鬼の顔とも呼んでおらぬ。

呪が掛かってしまうでな。

 じゃから、ワシは邪気も公平に雨と呼ぶのじゃ」


 私は、「なるほど」と頷いてから、空海の雑談を遮るように、「そろそろ、私が南山に呼ばれた理由を教えてくれませぬか?」と訊ねてみた。


 すると、空海は驚愕するようなことを、さらりと言ってのける。


「ワシを殺めて欲しいのじゃ」


その言葉に、私は眉をひそめる。


「戯れているのですか?」


 私の不満に、空海は満面の笑みを浮かべながら首を左右に振った。


「戯れてなどおらぬ。

そろそろ、ワシも次の舞台に行こうと思うてな。

 死という言葉も、人が作り出した呪なのだ。

騙されるな。

 死は、それほど深刻なものではない」


 私は、空海の真意を確かめるように、その顔をじっと見つめる。


「次の舞台ですか?」


「そうじゃ。次の舞台じゃ。

仏陀ぶったがそうしたように、ワシも涅槃というものを見てみたくなった」


その言葉に、私は思わず失笑してしまう。


「仏陀ですか…

仏教では釈迦、密教では大日如来。

 人は、本当に涅槃まで行けるのですか?」


空海は、真剣な顔で大きく頷いた。


「行ける。

ワシは、この目で見たのじゃ。

 涅槃に行った人間を…」


「何と!それはまことですか?

単に死者を見たというのではなく?」


今度は、空海が失笑する。


「お主は、ワシをうつけだと思うておるのか?

 ワシの目は節穴ではない。

その者は、達者に動きまわっておったが、生きてはおらんかった」


「死者が動きまわっていたというのですか?」


空海が重々しく頷いた。


「初めて会うた時、よわい百を超える不老不死の王冰おうひょうは、町医者として働いておったが、明らかにうつろであった」


私は、驚きの声を上げる。


「王冰とは、黄帝内経を編纂されたという大昔の医学者ですか?

 生きておられたのですか?」


 空海は、呆れたようにため息を吐いて、「だから、生きてはおらぬ…」と言い置いてから、話を続ける。


「生きておらぬから、死ぬこともないのじゃ。

ワシは、虚ろとなった王冰から、直々に不老不死の秘文ひもんである黄帝内経の第七巻を託されたのじゃ」


「第七巻は、黄帝内経を編纂した王冰自身が、最初から無かったと公言していたのでは?」


空海は静かに首を振る。


「王冰が隠しておったのじゃ。

そこには、不老不死の法が記されておったからのう」

読んで頂き、本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ