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逸勢の危惧

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 舎人とねりの声で、むせ返るような暑さに、ぼんやりとしていた意識が、急に引き戻された。


「但馬権守橘殿。

白雨殿の使いだと申す小坊主が、内々にお目通り願いたいと…」


ワシは、胸騒ぎを覚えて思わず顔を上げる。


「すぐに通せ」


 やがて現れたのは、若き日の空海を思わせる、聡明そうな小坊主だった。

 先ほどからの追憶で、空海を思い出していたので、何だか、妙な気持ちになる。


 小坊主は、一礼すると無言のまま膝を進めてきて、おもむろに、袖の中から取り出した紙を差し出した。


 二つ折の紙を開けば、短く「神の野に西日沈む」と書かれている。


急激に、胸の奥が凍りついた。


 嵯峨上皇の諱は神野なので、神の野は嵯峨上皇をあらわしている。

 西日は、病に臥せっている状態で、沈むは崩御だ。


「何と、準備が間に合わなかったか…」


思わず、噛み締めた奥歯から独り言が漏れる。


そして、小坊主の耳元で早口の言伝を囁いた。


「白雨に伝えるのだ。

月を東に隠す。急ぎ我が屋敷に参上せよと」


 月は恒貞親王を、東に隠すは、東国に逃すことをあらわしていた。


 頷いた小坊主が消えると、先ほどの舎人を呼び寄せて、「急ぎ、この書簡を阿保親王に渡してくれ」と頼む。


 恒貞親王を東国に逃すとなれば、我々の力だけでは無理だ。


 本来であれば、ワシの従兄妹いとこである檀林皇后(だんりんこうごう・橘嘉智子)を頼りたいところだが、夫である嵯峨上皇よりも、息子である帝(仁明天皇)との繋がりが濃い。


 ただ、恒貞親王の母親である淳和院后(じゅんないんごう・正子内親王)は仁明天皇の双子の兄妹なので、その母親は、同じく檀林皇后なのだが、娘よりも息子を溺愛している。


 だからこそ、薬子の変で廃嫡され、我々と同じ煮湯を飲まされた阿保親王の方が頼れるはずなのだ。


 ワシは、あらかじめ用意しておいた「御病平癒の加持祈祷許可書」を懐に収め、急ぎ東宮へと向かった。


 この時期、嵯峨上皇の病平癒に恒貞親王が東寺に向かったとて、誰も怪しまぬだろう。


伴健岑と数人の舎人を護衛につければ安全だ。


既に、淳和院后と恒貞親王には話を通してある。


 というよりも、淳和院后から強く請われたというのが真実だが、これは決して公には出来ぬ。


 ことが露見した場合、被害が大きくなるからだ。


 あくまでも、ワシの独断ということにしなければ…


 檀林皇后より報せを受けた藤原良房が動き出す前に、恒貞親王を密かに連れ出さなければならない。

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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