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延信の初恋

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 フワフワと淡雪が儚げに舞っていた。


 積もる心配はないだろうが、足元からシンシンと寒さが這い上がってくる。


 私が、狩衣の雪を払いながら、橘殿の屋敷に訪を入れると、舎人が出てきて「橘殿はお出掛けです」と告げられた。


 大師様は南山(高野山)においでなので、本日は独り修行だ。


 それでも、舎人が修行部屋に通してくれたのは、もう一年以上も通っているからだろう。


 橘殿も、「延信、延信」と呼んで、まるで息子のように可愛がってくれる。


 修行部屋に入ると、さっそく「黄帝内経」の霊枢を読み始めた。


 大師様には、この部屋から「黄帝内経」を持ち出すことは固く禁じられているが、読むことまでは禁じられていない。


 だからこそ、己が「俄か(にわか)」と呼ばれる特殊な存在であることも、今では、ちゃんと理解している。


 また、痛みを感じぬ体質と、俄かであることに何の因果関係も無きことも…


 ただ、痛みを感じぬ体質には、幼き頃よりたいそう苦しめられたのだ。


幼き頃から、よく怪我をした…


 痛みを感じぬ性質なので、唇を噛んで血を流すのはしょっちゅうで、殴られても平然としているから、友からも気味悪がられ、私は「物の怪」と呼ばれていたのだ。


父君や母君からも疎まれた。


 父君には、「代々、鍼医の家系でありながら、痛みを感じぬとは穢れつきも同然ではないか!」と、なじられ、私の居場所はどこにもなかったのだ。


だから、必死で人の顔色を伺った。


変な目で見られていないか?


陰口を叩かれていないか?


反感を持たれていないだろうか?


 いつも怯えながら、受け入れてもらうために、常に明るく振る舞っていたのだ。


 そして、私は、痛みとういものを常に渇望していた。

 傷を負って泣いている童を見れば、その傍らで、つぶさに様子を観察する。


 腰痛などで、運ばれてくる老人の話を聞いたり、腹痛を訴える患者と、父君のやり取りにも耳を傾けた。


 されど、今もって「痛み」が何であるかは分からない。


 そんなことに思いを巡らせていると、不意に声を掛けられて、飛び上がるほど驚いた。


「申し訳ありませぬ。

驚かせるつもりはありませんでした。

 何度か声を掛けたのですが…」


 扉の前に、美しい女性が火桶を持ったまま、困ったように立ち尽くしている。


私も、慌てて立ち上がった。


「こちらこそ、考えごとをしておりました。

申し訳ありませぬ」


私は、なるべく女性の顔を見ぬように俯いた。


すると、女性が修行部屋に入ってくる。


「冷えますので、火桶をお持ちしました。

あいにく女房たちも出かけておりますゆえ…」


 そういうと、火桶を床に置いてから、修行部屋をもの珍しげに眺めている。


「はしたないと思われるやもしれませぬが、私は以前より、霊枢というものに心惹かれておりました。

 叱られるので、父君には内緒にしてくださいね」


 そう言って微笑んだ女性の顔が、まるで天女のようであった。


 その瞬間、私は、呪われし運命も、霊枢の修行も忘れて、その女性に見入ってしまう。


「父君が申しておられました。

そなたは特別なのだと…

 ささが入ると、いつも上機嫌にられて、口癖のように言うのです。

 霊枢の師匠である空海ですら、延信には敵うまいと…

 なにせ、空海の霊枢は、俄かである延信には通じぬのだから、その内、追い抜かれてしまうであろう。愉快じゃと…

 半分は、大師様への当て付けですが、もう半分は、そなたを自慢していたのだと思います。

 ですから私も、一体どんな方なのだろうと、お会いしてみたかったのです」


 私は、その言葉にしどろもどろになってしまう。

 そして、生まれて初めて、人から認められ、受け入れられたという喜びが、ふつふつと湧き上がってきたのだ。


それが、雪のように淡い、私の初恋だった。

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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