呪
ぷち。
ぷちぷちぷち。
ぷちぷちぷちぷちぷちぷちっ。
今日も葉子は屋敷中の『呪』を見つけては、小さい足で踏み潰している。
「みちなは祟られ過ぎじゃのぅ? しゅしゅ」
白狐は「またか」とでも言いたげに尻尾を揺らし、足元の呪を前足で叩き潰した。
「ひとつ、ふたつ、みっつ……今日もたくさんじゃ!」
縁側でこれを眺めていた晴明が、深々とため息をついた。
「……普通はこれほど集まらんのだがな」
「みちなは人に好かれるが、人に恨まれるのも多いのじゃ!」
「その言い方はやめなされ、葉子」
けらけらと笑いながら、葉子はもうひとつ『ぷちっ』と踏み潰した。
「小さき呪は、まだそちにも祓えるから良いものの──屋敷の結界を張り直すべきか」
安倍晴明は考え込んだ。
「わらわ、どんどん踏むゆえ大丈夫ぞ!」
「そうではない。いいか、弱き呪でも集まれば呪詛に転じるやもしれぬ」
「………………?」
「呪は、人の心。嫉妬、慢心、疑心……生霊のほんの一欠片のようなものだ」
晴明は八十を越えているにも関わらず、未だ四十そこそこに見える若々しい顔をしかめながら呟いた。
妖狐の血がそうさせている──と言う噂は案外真実かもしれない。
晴明の母親は、葛の葉と呼ばれる九尾であると巷で囁かれているからだ。
「──だが、呪詛は違う。最初から命を狙うものぞ、贄を捧げて。それは標的の周囲の呪を喰って力を増す」
葉子は黙って聞いている。
「ゆえに、弱い呪と言えども侮ってはならぬ。道は祟りや呪詛に繋がっておる」
「では、ますます踏まねばならんのぅ?」
晴明は苦笑し、葉子の艶やかな髪を撫でた。
「いずれ手に負えぬ日が来る。慢心は命を落とす……若き陰陽師よ、呪を侮るなかれ」
葉子はプッと頬を膨らませたが、すぐにきらきらと目を輝かせた。
「とと様。なれば、わらわは学びたいのじゃ!」
晴明は一瞬目を見開き、やがてゆるやかに微笑んだ。
「……よかろう。ならば次の朔の日、式神の目を借りて呪を視る稽古をつけてやろう」
「ほんとうか!」
鬼も逃げ出す陰陽頭も、愛娘には些か甘いようだ。
葉子は飛び上がって喜び、晴明に飛びついた。
「朱刕も心得はあるゆえ、学べることも多かろう。日々霊力を巡らせよ」
白狐は嫌そうな顔をして、そっぽを向いた。
晴明は懐から小さな紙片を取り出し、指先で印を結んでひらりと宙に放った。
葉子の目に一瞬、生成りの紙片に施された墨の紋様がちらりと写った。
紙は空中で狐の形をとり、ぱっと消える。
「結界の四隅を清めておこう。そなたが踏み潰す前に、呪の姿を目に焼きつけるがよい」
「御意!」
◇
朔の日の夜、土御門殿の庭は張り詰めた空気に包まれていた。
四隅には新しい札が埋められ、香が焚かれて静かな煙が漂っている。
「そこに座れ、葉子」
晴明は低い声で言い、葉子の額に指を当てた。
指先がひやりと冷たい。
「式神の目をそなたに借す。目を閉じよ」
葉子はこくりとうなずき、ぎゅっと瞼を閉じた。
晴明の声が淡々と祝詞を唱える。
……しん、と音が消えた。
次に目を開けたとき、世界は変わっていた。
庭の石に、柱に、床板に──黒いしみのようなものがぽつぽつと見える。
どろりとした影が、じわりと動いている。
「……これが、呪……?」
思わずつぶやいた葉子の声は、いつもより小さかった。
「恐れるな。今まで踏み潰してきたものと同じだ。ただ、形が見えておるだけ」
晴明がうながすと、葉子は小さな足で近づき、えいっと踏んだ。
ぶしゅ、と水泡がはじけるように、呪は消えた。
「おお……!」
朱刕がふっと笑ったように鼻を鳴らした。
「見えると、もっと気味が悪いのぅ」
「それが本来の姿だ。これからは、見て、知って、祓え」
晴明の声は厳しいが、どこか誇らしげだった。
「それに、生臭い。ひどい匂いじゃ」
「目は一度開けば良い。瘴気とは匂うものと心得よ」
葉子は足袋をしげしげと眺めた。
「穢れておる。わらわ、ずっとかような足袋をはいておったのか……」
「踏まずとも、そなたであればいずれ触れずに祓えよう」
晴明は静かに手を振って見せた。
ぽっ。
ぽっぽっぽっ…………
青白い狐火が周囲を仄かに照らす。
それは一直線に呪に向かい、パッと散った。
さっきまで重く淀んでいた空気が、すっと澄んでいく。
「青い火が、祓った……」
葉子は目を丸くしてつぶやいた。
「此は陰陽道に非ず。妖狐の血を持つがゆえの妖術」
晴明は淡々と告げ、手を下ろした。
青い火はすべて消え、庭は月明かりだけになった。
葉子はしばし黙って、静かな庭を見回した。
──呪が消えた庭は、こんなにも明るいのか。
「わらわも、あの火を灯せるようになるかの?」
晴明は目を細めて笑った。
「そなたも妖狐の血を持っておるゆえな。なれど、まずは霊力──妖力は先の話」
「ふむ。毎日しゅしゅと霊力を巡らせればよいのじゃな?」
晴明は何も言わず、微笑んだ。
じわり。
「のぅ、また呪がわいてきおったぞ。みちな、呪われ過ぎじゃな?」
「ほほ、権力と呪は切っても切れぬものよ」
軽く笑い飛ばす晴明を横目に、葉子は鼻をつまみながら呪を踏み潰した。




