箸揃えと姫の失態
彰子おばがややこを産んでから約三ヶ月後──
ややこが産まれてからちょうど百日目の朝。
普段は昼近くに動き出す土御門殿は珍しく朝から華やいでいた。
小さな膳が整えられ、赤飯に焼き鯛、吸い物、煮物、香の物──まるで小さな祝言のような膳立て。
箸揃えの儀、である。
葉子は張り切って赤子の前に座り、箸を持った。
「ほれ、ややこ、口を開けるのじゃ!」
「ちょん、とつけるだけでございますよ」
笑う女房に手を添えられ、葉子は赤子の唇にそっと箸を当てた。
「よいぞ、これで丈夫に育つのじゃ!」
道長は終始にこにこし、倫子は目を細め、晴明まで「吉兆なり」と頷いている。
朱刕は後ろで尾をゆらゆら揺らし、こぼれ落ちた赤飯の豆をぱくりとくわえた。
宴のあと、彰子おばとその息子はいよいよ御所への帰参である。
女房たちが荷をまとめ、牛車が並べられた。
彰子は晴れやかな顔で赤子を抱き、葉子はぎゅっとその袖を握った。
道長があまりにもややこを構うもので、拗ねた葉子が一ヶ月ほど道長に会うことを拒否して周囲も道長も大いに慌てた一幕もあったが。
ややこは可愛らしく、葉子はすっかり姉姫気分になっていた。
「またすぐ来るのじゃぞ!」
道長は名残惜しげに牛車の戸口に付き添い、しきりに頷いていた。
「……うむ、うむ、御所に戻っても大事にいたせよ」
牛車がゆるりと動き出すと、葉子は車の後ろを追いかけて手を振った。
「またの! わらわが遊びに行くからの!」
土御門殿は、少しだけ静かになった。
翌日、葉子は朱刕を伴って御所に侵入した。
隠形の術を幼い頃から使い続けていたので、安倍晴明も舌を巻くほど葉子の隠密行動は完璧なのだ。
ぴょいぴょいと門番の脇を通り抜け、ややこのもとへまっしぐらである。
「彰子おばうえ! 遊びに来たのじゃ!」
「まあ!内親王」
「葉子ぞ!」
「ふふ、葉子、いかようにしてここまで──」
「しゅしゅと共に隠れて来たのじゃ!」
白狐の朱刕がすっと姿を現し、御所の女房たちは思わずどよめいた。
「まあまあ……狐殿まで」
「かわいらしい……」
「ややこはどこじゃ! わらわが抱っこするのじゃ!」
彰子が笑いながら赤子を差し出すと、葉子は大事そうに抱え上げた。
「おお……よう来たのぅ、ややこ!」
朱刕はその足もとに座り、尾をゆるりと揺らして見守っている。
御所の女房たちは顔を見合わせ、忍び笑いを交わした。
「さすがは北家の姫君、堂々たるものですな」
「狐殿も、まるで乳母のように……」
葉子は赤子をあやしながら得意げに胸を張った。
「わらわが守ってやるのじゃ、ややこ!」
この時、ようやく周囲が大騒ぎになった。
葉子の脱走がバレたのだ。
そもそも中宮のところに来た時点で、母涼子にバレている。
涼子は中宮に仕えているので、誤魔化しようもない。
「姫様ーっ! お戻りくだされーっ!」
御所の外から、牛車で駆けつけた女房や侍童の声が響く。
葉子は涼しい顔でややこを抱きながら、きょとんと首をかしげた。
「わらわはただ、ややこに会いに来ただけじゃぞ?」
涼子はため息をつき、しかし娘の満面の笑みに根負けしてしまう。
「まったく……そなたは昔から一度決めたら止まらぬ子じゃ」
女房たちは葉子の居所がわかって、ほっとして腰を抜かす者まで出る始末。
朱刕は知らぬ顔で前足をなめている。
「しゅしゅ、そなたも共犯ぞ!」
葉子が笑えば、朱刕はふわりと尾を振って答えた。
「ま、よいか。ややこも喜んでおるようじゃしの」
彰子が苦笑混じりに言い、場は次第に和やかになった。
こうして葉子の御所侵入は、叱責というより笑い話としてその日の御所の話題を独占することとなった。
しかし、お屋敷ではそうはいかなかった。
その日の夕刻、土御門殿に戻った葉子は、祖母倫子に呼び出された。
庭の片隅、桜の木の下で待っていた倫子はにこやかな顔をしていたが、その目は少し厳しい。
倫子は葉子を自室へ連れて行った。
「内親王──」
優しい声色なのに、背筋がぴんと伸びる。
葉子は正座して、両手を膝の上に置いた。
「そなたが御所へ忍び込んだせいで、付き従っていた女房たちは皆、罰を受けたのじゃぞ」
葉子ははっと顔を上げた。
叱られることは覚悟していたが、まさか自分の行動で誰かが咎められるとは思っていなかった。
「……女房たちが……?」
「そうじゃ。そなたを止められなんだとて、膳番も車持も皆、膝を折らされておる」
「わらわが勝手に行ったのじゃ!」
「それでも、姫を守る者が姫を見失うなど──あってはならぬこと」
倫子の声は怒ってはいない。
ただ淡々と事実を告げるだけだった。
だからこそ、葉子の胸にはぐさりと刺さった。
「……わらわのせい、なのか……?」
朱刕がそっと葉子の膝に顎を乗せる。
葉子はぐっと唇をかみ、俯いた。
涙が溢れ、視界が滲む。
「そなたがややこを思う気持ちは、わらわもようわかる。なれど、姫はただの子ではない。そなたの振る舞いが、まわりの者の身にも及ぶのじゃ」
葉子は黙ってうなずいた。
しゅんと肩を落とし、涙をこぼすと朱刕が鼻先でそっとそれを拭った。
「……次からは、許しを得てから行くのじゃぞ」
倫子は最後にそっと葉子の頭を撫でた。
葉子は「御意……」と小さく答えたが、身体の震えと胸の奥の重みはしばらく取れなかった。
翌朝、葉子はまだ薄暗いうちに起き出した。
朱刕を連れて、昨日慌てて駆けつけてきた女房たちの部屋へ向かう。
「姫様……!」
寝間着のまま飛び起きた女房たちに、葉子は深々と頭を下げた。
「皆、すまなんだ! わらわが勝手をしたばかりに、罰を受けさせてしまった……」
女房たちは一瞬ぽかんとしたが、やがて顔をほころばせた。
「まあまあ、姫様がお詫びなど──」
「わたくしたちこそ、お守りできず申し訳ございません」
葉子は首を振り、きゅっと胸を張った。
「これからは許しを得てから行くのじゃ! そなたたちにも迷惑をかけぬように」
朱刕が尻尾をぱたりと振ると、女房たちは堪えきれず笑みをこぼした。
「はい、姫様」
「またややこ様に会いに参りましょうね」
葉子はぱっと顔を輝かせた。
「うむ! 皆で参ろうぞ!」
ふぁ、と白狐が欠伸をした。




