とと様と狐の不在
ある日のこと。
葉子が庭でしゅしゅと蹴鞠に興じていると、安倍晴明が滲み出すかのごとく松の影からじわりと姿を現した。
「とと様! 久方ぶりなのじゃ」
「ほほ、元気なことよ」
「とと様がどこへ行っておったのか、わらわに誰も教えてくれぬのよ」
晴明は目尻の皺を深め、ふくれっ面の葉子のそばに滑るようにやって来た。
「みちなか! みちな、また呪われたのか?」
「無体なことを言う。私は少々用あって、葛の葉の山に行っておっただけぞ」
狐姿の朱刕は静かに伏せて耳だけを油断なく立てており、ふわふわの毛が葉子の足先をくすぐる。
葉子はしゃがみ込むと相棒を撫で回し、機嫌の良い晴明を丸い瞳で見上げた。
「とと様は、最近ずいぶんあちこちに行っておるのう?」
「さよう。葉子が今より幼き頃に、安倍晴明は没したことになっている。今は表には出ず、大殿の助けをしているものぞ」
葉子は首を傾げた。
没したという安倍晴明であるとと様は、目の前で笑みを浮かべて佇んでいる。
「なに、案ずることではない。陰陽頭はもうこの世に居なくなったと言うことにしておるだけ──秘密ゆえ、口外してはならぬぞ」
「秘密か! わらわと、とと様の秘密じゃ。……しゅしゅは聞いてはならぬ」
葉子は満面の笑顔で、白い狐の耳を小さな手で押さえつけた。
朱刕は嫌そうに鼻を鳴らし、立ち上がり庭の隅に行ってしまった。
「今日はな、朱刕を借りに来た」
晴明は秘密めかして囁いた。
「ふむ。秘密のつとめか? とと様」
「ほほ、葉子は賢いのう。内密だが、秘密じゃ」
「内密の秘密とは……すごく秘密か」
「さよう、安倍晴明が生きておるのは秘密ぞ」
大好きな相棒を連れて行かれるとあっては、心穏やかではないが秘密のおつとめならば、やむなし。
幼き葉子は良いように言いくるめられ、朱刕が屋敷から居なくなって数日が過ぎた。
「退屈じゃの」
葉子は遊び相手がいなくなり無聊の日々を送っていた。
だが、今日は祖父である道長が屋敷にいると聞き、退屈だと言いながらも葉子の機嫌は良い。
女房から椿餅を幾つか貰い、黒塗の盆に乗せて意気揚々と道長の部屋を訪れた。
「みちな、葉子が来たのじゃ」
「おお、はぁこか」
まだ日が高いというのに、道長は布団の中。
ぐったりと横たわり、声にも覇気がない。
「みちな、どうした! さては呪か」
「さてな。どうにも身体が重くてかなわん」
最愛の孫が来たとあって、道長は些か苦労しながら身を起こした。
女房が水を差し出すと、一息に飲み干し小さなうめき声を漏らす。
その間、葉子は点在する小さな呪を消していく。
「ほう、踏まずとも滅するようになったか」
「たくさん練習したのじゃ。ほれこの通り」
ぽっ。
葉子の指先に青白い炎が揺れる。
それはゆるゆると宙を漂い、道長の目には見えない呪を次々と滅していく。
「みちな、狐火はとと様ならば、もっと速く飛ばせるぞ」
「……ううむ、齢九つにして陰陽行に留まらず妖術までか」
道長はこめかみを手で押さえ、ため息をついた。
「惜しい。なんと惜しいことか。血筋も申し分なくこのうえなく雅な姫であるというのに──」
葉子は女房に盆を手渡し、道長のそばに座して顔色の良くない祖父を覗き込んでいる。
「口惜しや。はぁこは頭も良い。だが、だが」
「だが?」
葉子の無邪気な声に道長は頭を抱えた。
「かように妖狐の血が色濃いとなると、政に使えぬではないか」
「わらわ、嫁にはいかぬぞ。みちなとずっと一緒じゃ。呪はわらわが祓う!」
道長は複雑そうな笑顔を浮かべ、葉子の艷やかな黒髪を撫でた。
「よい、よい。政に使えぬのは無念だが、はぁこは一番の孫娘ゆえな。見よ、この緑の黒髪を」
「ほんに葉子姫は──」
「類稀なき美姫でありまするな」
「母君の涼子姫は、大殿の母君に瓜二つだと」
黙したまま、そばに控えていた女房たちが口々に同意した。
「さよう」
道長は再度差し出された水を飲み干し、大仰に頷いた。
「まごうことなく藤原の姫よ。はぁこは我が母上にもよう似ておる」
それがなおのこと惜しい、と大袈裟に嘆く道長だったが。
笑顔の葉子を見て気分が良くなったのか、仲良く椿餅を食べ始めた。
「のう、みちなはどうしたのじゃ」
再び横になった道長の部屋からやんわりと連れ出された葉子は、自室へと送ってくれた道長付きの女房に声を掛けた。
「大殿は身体が石のようだと申され、足が痛いと」
「ううむ、呪は少なかったのじゃ」
「ほほ、あのお部屋は晴明殿が結界を仕込まれてます故に」
「うむ。おかしいのう。なのになぜ、みちなは伏せっておるのか」
部屋に戻った葉子は、すぐにまた外に出て屋敷中の呪を祓った。
守り狐が不在とあって、葉子の行く先々に女房たちがぞろぞろと付き従う。
「ここは良し。次は……」
ぽつり。
葉子の頬に、一粒の水滴。
「姫様。ささ、中へ」
「雨にございます」
「では今日は雨の歌でも詠みましょう」
空を見上げると、なるほど雲行きが怪しい。
こうなっては致し方ない。
(戻らねば、女房たちが罰を受ける……)
葉子は素直に屋敷の中へ戻り、その日は歌を詠んで過ごすことにした。




