紫式部はいない
「な、なあ! 香って紫式部?」
「紫とな? 香は香ぞ、紫式部なぞ知らぬ」
「え、そうなの」
姫は少し考えているようだ。
「式部、とは呼ばれておる……紫は知らぬ」
「じゃ、じゃあ香式部って感じ? てか式部ってなに?」
「式部は香の家のことぞ」
「じゃあ、香は──」
はぁ、小さな溜め息が聞こえてきた。
「そんなわけなかろ。わらわは良いけれど、やすく名を呼ぶのはダメなのじゃ」
「えっ、なんで」
「偽道、名は呼ばぬのじゃ。名は魂とつながるゆえ、知られるはよくない」
「え、魂?」
「うむ。名を呼ばれれば、呪もかけられよう。よき家の者は、名を隠すものじゃ」
「じゃあ、なんて呼べばいいの」
「名は親しかろうとも呼ばんのじゃ。わらわも屋敷の外では決して呼ばぬ」
「そ、そうなの……」
平安ルール、やべぇな。
呼び捨てどころか名前呼ぶのがアウトって、どんな文化だよ。
個人情報が命に直結?
「香は北家のものであるから、藤じゃ」
あ、ちょっと誇らしげだぞ。
北家ってワードめっちゃ出てくるな、後で検索しておこう。
「じゃあ藤原の……式部?」
「うむ、そう言うておるぞ。香は藤の女房ぞ。ものがたりが、うまいのじゃ!」
◇
翌日、俺はさっそく一条と式部に報告した。
「なあ……香って紫式部じゃね?」
「はあ!? マジで!?」
「でもな、姫に聞いたら紫は知らぬって言われた。藤式部とは呼ばれてるって」
一条がノートをめくりながら、勢いよくペンを走らせる。
「じゃあほぼ確定じゃね!? だって式部で、ものがたり書いてるんだろ!?」
「しかも今ちょうど光る君が恋してる話書いてるって言ってた」
「うわー! 源氏物語連載初期に立ち会ってるのか俺ら!?」
「いや、まだ連載前だぞ」
式部は大慌てでスマホを取り出した。
「執筆時期……執筆時期……!えーと、1008年ごろって説があるって!」
「おおお、時期ピッタリじゃん!」
一条は目を輝かせ、ノートに赤ペンででかでかと書き込む。
『香=紫式部(確定?)』
「姫は知らんって言ってたぞ?」
「でも藤原家出身で、倫子の侍女やってて、今は彰子付き。しかも式部!」
「条件揃いすぎ……」
式部が腕を組んで唸った。
一条がスマホの検索画面をこちらに向けた。
「藤式部=紫式部じゃん」
「あ。藤原香子って名前だった説があるっぽい」
「香じゃん。それじゃん?」
「てか紫式部って呼ばれてないの、むしろリアルじゃない? 紫ってあだ名、後世についたやつでしょ?」
「そうそう、源氏物語に紫の上ってキャラがいるから、後から紫式部と呼ばれただけだって説がある」
俺は手に力が入らないような、少し怖いような不思議な気分になった。
「じゃあ何、俺ら今、リアルタイムで源氏物語を実況してるってこと!?」
「やば、国宝誕生の瞬間じゃん!」
「……姫、めっちゃ貴重な情報持ってんな」
一条がノートにもう一行書き足した。
『葉子姫・平安文化情報局?』
──葉子姫。
これが、俺と一条、式部がやたら平安時代に詳しくなった理由だ。
そうそう、姫はちゃんと道長と仲直りをした。
この時、姫は八歳。
結構流暢に喋るようになっていたので、詳細に教えてもらった。
道長、拗ねた姫の機嫌を取るために『黄熟香』なる香木を入手したんだとか。
あとから一条が調べてわかったことだが、この香木は正倉院の宝物庫にある蘭奢待という香木のことで、なんと宝物庫は天皇陛下の許可がないと、開けられない。
普通の人には入手不可な代物だった。
お金を積んでも無理なヤツだ。
権力ってすごいよな。
これ以降、姫の香──時々ふっと香るあの香りは、バニラのような甘いものに変わった。
あと、なんで俺たちがこんなに姫に夢中になったか。
ちゃんと理由がある。
この姫──血筋や立ち位置もぶっ飛んでいたが、本人が陰陽と妖術の使い手だったのである。
いや、親が親なので当然と言えば当然なんだけどさ。
高校生の俺たちが、霊力やら霊符、物の怪に呪詛──こんなワードをスルーできるわけないじゃんか。
そういうわけで、俺たちは姫の通信を待ちわびるようになっていた。
◇
「なあ、やっぱり物の怪と戦ったりとかある?」
「偽道、陰陽道は戦う道ではないのじゃ。星を詠み、歴を作り、占いで人々のくらしを善きに導くものぞ」
「え? じゃあ、怪異とかどうすんの」
「祓う。その為の、祭祀がある。呪詛もかけるはなく、返す物ぞ」
「なら、誰が倒すんだよ」
「武者や検非違使ぞ。田舎なら国司が弓の巧者を集めて討つのじゃ。あとは僧かのぅ」
「僧も?」
「うむ、寺の力は強い。鬼を封ずるも、疫を鎮めるも彼らの仕事ぞ」
「ああ、確かに僧兵とか修験者って聞いたことあるわ……」
陰陽師、俺が想像していたものとは違うようだ。
結界や呪詛返しなどはあるようだが、基本『守る』のが陰陽師。
後方支援だな。
物の怪退治や討伐は、陰陽師自身は滅多にやらない──出来ないわけではないが、陰陽師の仕事は討伐ではなく、儀礼や星詠みなどの公式イベントがメインだったらしいな。
「わらわは妖術で戦っておる」
「ファッ!?」
「とと様の方のおババ様が、妖狐故に」
◇
一条のノートには陰陽師について、こう書かれている。
・公式行事・占い・暦作りが本業
・怪異退治はメイン業務じゃない、呼ばれたら行く
・バッファー兼デバッファー
・陰陽師は「国の陰のインフラ」みたいな立ち位置
──こうして令和の藤原道長、平安時代の観測員となったのだった。
一条(親王)と紫式部(笑)と共に。




